税所(さいしょ)の日記

IQ122(全検査数値)の高機能自閉症”グレーゾーン”の頭の中身。

買い物は決断することが多すぎる

最近気づいたんですが、買い物って苦痛ですね。

というか買い物が大嫌いかもしれないないです。

 

買い物って、まず、何を買って良いのかわからないです。

例えば洋服の買い物であれば、シャツを買わないといけない、パンツを買わないといけない、というニーズがあり、もちろんそのことは認識はしています。

 

じゃあ、シャツを買いに行こう、となった時に選択肢が多すぎませんか?。

まず、シャツのブランドを何にするのか、そしてどこの店舗で買うのか、決断しないといけないことが多すぎます。

 

まあ、僕はブランドを買うことはないので、あまり悩まずにユニクロに行きます。

でもユニクロだって、どこの店舗に何曜日に行くか決めないといけません。

ちなみに何曜日というのは、ユニクロは、週替わりでセール品が決まっているので、自分が買ったシャツが、実は来週セールになることが分かった日には、目も当てられないくらいのフラストレーションが発生します。

 

無事にユニクロの店舗に到着しても、サイズを決めて、一応試着もしますが、これまたなんだかんだで面倒くさいです。

そして、晴れて購入決定!

でもレジで支払いをする段階になっても、いざ支払いをするとなると、本当にこの決断で良かったのかどうか、頭の中はまだまだ逡巡したりします。

 

会計が終わってエコバッグにいれたシャツを家に持って帰るときに、なんでこんなものを肩に下げて帰らないといけないんだろう、身軽に歩きたいと考えると憂鬱になったりします。

 

さらに、シャツを家に持って帰った後、クローゼットの中のどこにしまおうと考え出すと、古いシャツは断捨離したほうが良いのかどうか、また、「一つ買ったら一つ捨てる」というルールをそういえば決めたなあなんてこと思い出し、一体どの古いシャツを捨てるべきか、なんてことを考え始めたら、これまたストレスです。

 

それだけでなく、そもそも本当にこのシャツで良かったのか、ユニクロではなく、他のブランドもあたっていたら、もっと品質が良くて安い製品があったんではないか、そんなこともぐるぐると頭をよぎったりします。

 

そして、家に着いていざシャツの値札や包装を捨てる時に、「これを捨ててしまえば、泣いても笑ってももう返品はできないんだ」と自分に言い聞かすこともストレスです。

 

とにかく買い物って、このように決断すべきことが多すぎませんか?

発達障害グレーゾーンにとっては、決断することが自体がとてもストレス中、決断の場面が多い買い物は、とてもストレスになっているんだなと気づきました。

これでは、買い物は楽しい、モノにも思い出、どころではありません。

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これでも昔は、買い物は楽しいと思っていたこともありました。

でも、今から考えると楽しいと思いこんでいただけなのかも。買い物が終わった後はぐったりしていることが多かったです。

年を重ねるごとに、この傾向が強くなってきている気がします。

 

誰か、シャツを定期的に買ってきて、これを着ていればそれでオッケーと言ってほしい。

 

本当にそんな思いです。

 とにかく負担を減らすために、最近は「柄もの、文字の入ったものは買わない。白、黒、青色以外のモノは買わない」などのルールを少しずつ自分の中に打ち立て、これに従うことで決断の負担を軽減しています。

 

それでも、実際に買い物の事前にネットで調べたり、店舗に行くと、このルールの範疇から外れた、魅力的な商品を見かけたりします。

 

広告・マーケティングに踊らされているわけです。

でもそれは僕のニーズ、ウォンツではありません。

 

そして、広告・マーケティングに踊らされそうになっている自分を戒めることも、これまたフラストレーションのたまるプロセスであったりします。

 

服だけの話ではありません。

 

毎日の夕食の材料をスーパーで買う時も、作った方が良いのか、総菜で済ませるのかから始まり、食べたいもの、体に良いもの、値段が高いもの、特売のモノなど、購入を判断する要素は多数あり、考え出すと無限ループにはまります。

 

総菜コーナーと鮮魚コーナーを何往復もする自分がいます。

 

ちなみに、最近、勝間和代さんがVoicyで、「最近好きなものしか食べないようにしている」という話をしていましたが、共感しました。

体に良いから野菜も買わないと、とか、今日は玉ねぎが特売だから買っておかないと、などと考え出すとだんだん訳が分からなくなってきます。

 

好きなものを一品だけ買い、あとは、家にあるもので済ませるというのもアリだなと思います。ちなみに勝間さんによると好きなものしか食べないと、少量で済むので、ダイエットにも良いらしいです。

 

選択肢が多いことは良いことだと思っていました。でも最近選択肢が多いことは、決断の負担に疲れるなと思い始めました。誰かが着るべきシャツを決めてくれればそれを着るし、そのまま出された食事も食べるし、という感じです。

 

そういえばアップルの創業者のジョブスも、毎朝何を着るべきか決断する時間がもったいないから、クローゼットの端から順番に着ていけばよいようにTシャツを並べていたと聞いたことがあります。今の僕はめっちゃ共感します。

 

人間のDNAは選択肢が多い状況・環境に未だ慣れていないのかもしれません。

昔は、着るものがある、食べるものがあるだけで幸運で、選択肢などなく、ほとんどすべてが一択というような環境だったでしょう。

現代社会が豊かになって初めて、選ぶことができるほどいろいろな製品・サービスが溢れて、選択肢の中から選択することが可能になったわけです。

 

それともこれは僕が発達障害グレーゾーンだからであり、定型発達の皆さんはやっぱり「うほっ、買い物ちょー楽しい!いろいろ考えて選び抜こう!」という感じなのでしょうか。

 

誰もが語り部の時代に成立した低予算番組

現代社会は高度化・複雑化しています。

これに伴い、人々の関心や生き方はどんどん多様になります。

さらに、人間の寿命が長寿化することにより、関心×経験年数を掛け合わせた多様化の度合いは益々増大します。

そしてSNSの出現により、メディアに取り上げられなくても、個人が関心や生き方を発信することができるようになりました。

これが誰もが語り部となる時代ですね。

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昔は現代ほど長寿でもなく、また、生きる糧のために労働する度合いが大きかった時代です。

人々は毎日農作業に従事し、労働に追われていくうちに今よりも短い寿命を終えていく、という生き方が大半だったのではないかと思います。 

そうすると自分と他人の生き方にそれ程大きな違いはなく、他人のそれを知りたいというニーズも今ほどはなかったものと思います。

しかし今や一億総発信時代、気軽に自分の関心や生き方を発信できるし、また興味のある人の発信を検索して知ることができます。

 

さて、このような、個人の関心や生き方を伝えることは、テレビ・新聞などの既存のメディアも得意とするところでした。

堅いところでいえばドキュメンタリー番組として(例:プロジェクトXなどのいまだ生存している人も含めた偉人伝)、気軽なところでは報道番組における箸休め的コーナー(例:100歳でお元気なおばあちゃんが市長から表彰)での取り上げ方ですね。

ところが、最近のテレビ番組を見ていると、バラエティーとして、また、特段何か特別な業績や取組があるわけでもない素人の関心や生き方を取り上げる番組が増えていると思います。

特に、テレビ東京は他のキー局に比べて予算の制約があるからか、素人を題材にした低予算(?)の番組作りがうまいと思います。

僕が好きな番組は以下の通りです。

 

昼メシ旅

日本各地を芸能人もしくはディレクターが歩いて回り、街頭、畑、店舗等で出会った人に話しかけ、何をしているのか聞き、その上で昼ご飯を見せてほしいとお願いするだけの番組。了承されると、その個人の家まで上がり込み、食事の様子を撮影しつつ、いろいろと話しを聞き出す。

 

家ついていっていいですか

ディレクターが終電近い時間帯の駅や飲み屋周辺で、帰宅しそうな人に話しかけ、家ついて言って良いかお願いする。了承されると、タクシー代とコンビニでの買い物代を番組が負担して、家までついていき、話を聞き出す。 

 

Youは何しに日本へ

ディレクターが成田空港等の到着ロビーで外国人に話しかけ、何しに日本に来たのか聞き出し、面白そうであれば同行取材をお願いする。了承されると日本各地どこかで待ち合わせて取材。

 

昼飯、家、来日目的、きっかけは何でも良いのですが、とにかく外国人を含む素人に話しかけて、取材をさせてもらうという、どれもほとんど同じ手口で成り立っています。

素人相手のため、出演にギャラ(出演料)は必要なく(交通費程度)、コストをおさえつつ、題材は非常にバラエティに富んでいる(なぜなら、誰もが語り部となる時代であるから)という、非常に巧みな番組制作の戦略だなと思います。

また確かに見ていて面白いです。

特に従来のドキュメンタリーや報道との違いは、仕事や取り組んでいることを中心に取り上げるのではなく、その人の家までついていって、暮らしぶり、家族(の有無)などのプライベートな情報までが映像で明らかになるところでしょう。

どんな家に住んでいるのか、どんな配偶者がいるのか、またその配偶者とどういうコミュニケーションをとっているかなどの情報は、その人の生き様、関心、人格などについて多くの付随情報を与えてくれます。

芸能人の不倫や不祥事などのゴシップ情報は、いかに取材を極めても、家の中までや家族とのリアルのコミュニケーションを開示してくれるものではありません。

そういう意味では、他人の最もプライベートな領域まで入り込んでノンフィクションな情報を見られるものが、これらの素人を題材にした番組と言えます。

 

素人が生き様を見せるだけの番組が、俳優・芸人等の芸能人の演技(フィクション)やらプライベートの一部開示よりも、よほど面白いし、番組として成り立つ時代なのです。

また、素人の方もSNS発信の時代をむかえているからか、自らを開示することに躊躇しないようなってきているように見えます。

 

ただし、既存メディアは、個人のSNS発信などに比べれば圧倒的に予算力、企画力、広報力を有しており、個人の関心・生きざまという同じ素材を取り上げるにしても、その発信力、関心訴求力はけた違いです。

テレビ東京のこれらの番組は、既存メディアとSNSという新興メディアの移行期にうまくポジショニングされた企画だと思います(繰り返しますが、予算制約が一番の大きな理由かもしれませんが)。

 

【旅行記】釧路(市街のみです)

北海道の釧路に行ってきました。

道東には初上陸、と思っていたのですが、行ったことのある帯広もなんと道東に分類されるらしいですね。

え、でもそうすると、道央ってどこになるのでしょうか。

旭川富良野、帯広辺りは道央ってことで良いのではないでしょうか。

 

それはさておき、まずは基本データ。

釧路の人口は約16万5千人。

道東の拠点都市とされるには予想より少ない印象です。やはり北海道自体が人口少ないですからね。1200万の九州(沖縄を除く)に対して北海道は半分以下の500万。

拠点都市といっても、これくらいの人口です。

 

そして、地方都市にもれなく釧路の人口は減少している。

さらには、”道東”の同じく拠点都市である帯広と比較した場合、減少率は釧路の方が大きい。さらに、帯広に人口を奪われている。

北海道といえば、札幌の一極集中、札幌への人口流出というイメージですが、絶対数は大きくないながらも、釧路から帯広への流出というルートもあるそうです。

そして、2020年末にはついに、帯広の人口16万5670人が釧路の人口16万5667人を非常な僅差(3人!)で抜いてしまいました。

これで、道内人口ランキングは、札幌、旭川、函館、苫小牧、帯広、釧路の順になり、釧路は人口第6位に転落することに。

釧路は水産、石炭、紙パルプの街。斜陽産業である石炭を抱えている点が影響している。

また紙パルプについても、地元の大きな雇用の受け皿である日本製紙が釧路工場から撤退予定らしく、数百人規模の配置転換が想定されるので、人口には逆風が続く。

水産は、水産資源の枯渇が影響なんでしょうか。

さて、僕の搭乗したJAL543便は羽田12:45発。

右の窓側席に座ったところ、眼下というか窓を覗き込んだ真下に仙台空港三陸リアス式海岸が判別できた後、やや進路を右よりにとって太平洋に出て釧路を目指す。

ちなみに、アナウンスで、機体左側に蔵王が良く見えると案内があったが、右手窓側に座っていたので確認できなかった。

釧路空港(たんちょう釧路空港)到着後は、バスで釧路駅前まで約1時間(950円)。

宿泊はコンフォートホテル釧路(税込み朝食付き4410円)。駅から徒歩3分くらいで便利です。空港バスの発着場のすぐ近くです。

ただし、駅前にはホテルが乱立しているので選択肢は多いと思います。

ホテルは、そこそこ新しくてきれい。それ以外はこれ以上特徴を押し殺すことはできないのではないかというくらい特徴のないビジネスホテル。大浴場はなし。一階朝食会場では、午後はコーヒーとレモンフレーバーの水は無料提供。

部屋に荷物を置いて外に出て気づいたのは全体的に霧がかかっている街並み。

釧路は霧の街なんですね。ロンドン、サンフランシスコ、釧路が世界三大霧の街(なわけない!)。

寒くはないものの、強めの涼しさといった感じの気温。

まずはJR釧路駅の確認。駅ビルは4階建ての建物。駅ビルといっても、2階以上は電気もほとんどついておらず、建物自体が老朽化して何に使われているのかよくわからない様子が異様な佇まいを醸していた。

駅ビルの1階に商業施設が数軒(22時閉店のセブンイレブン、弁当・お土産物屋、レストラン)と改札口がある程度。

釧路駅に乗り入れる路線は電化されていないので電車ではなく、ディーゼル車の発着。札幌方面には特急おおぞらが一日数本があるようです。また普通電車は帯広まで。

あとは網走方面に行く釧網線と、根室方面に行く根室本線花咲線

駅から南方向に延びる大きな通りが北大通(ほくだいどおり、と読みそうになるが、きたおおどおり、です)。

10分ほど歩くと幣舞橋(ヌサマイばし)に到着。釧路の観光風景の画像としてよく使われる釧路川にかかる橋がこれ。ヌサマイはアイヌ語が源の名称。

観光名所らしく橋のたもとには観光案内所があったので、パイプ椅子に座って小説を読みふけっているスタッフ(おじいちゃん)に話しかけてみると、橋の向こう岸の小高い丘の上にある生涯学習センター「まなぼっと幣舞」の最上階(10階)が展望台であると教えてくれる。

あと、東日本大震災の際は、釧路川にも津波が押し寄せたことを教えてくれた。

展望台まであがるも、霧のため全く見通せない状況なので、早々に退散し、幣舞橋の反対側に戻り、フィッシャーマンズワーフ施設を覗き、駅方向に戻る。

駅から徒歩5分くらいのところには、和商市場という市場があり、海産物を観光客に売っている様子。海鮮丼などを食べられるレストランもあるほか、「勝手丼」という、市場の店で材料を仕入れて持ち込むと、捌いて調理して、ごはん・味噌汁・小鉢をつけて提供してくれるシステムもあるらしい。

一人旅では外食も億劫になることが多く、結局駅ビルのセブンイレブンで酒とつまみを買ってホテルで食べることにした。

ちなみに、北海道のコンビニと言えばセイコーマート。和商市場にはセイコーマートが併設されていたが、幣舞橋近辺や釧路駅前ではセブンイレブンとローソンが多い印象。

さて、夜は地元の方とお会いする機会あり。いろいろ教えてもらったので備忘録。

釧路駅前は釧路市になるが、その北側に釧路町という自治体もあり。釧路町釧路市に合併したがらない。釧路町にはイオンもあり財政が釧路町の方が潤沢。釧路駅前が衰退をしている一因(地元の人はJRを使わない。住む場所も駅前にこだわらないので、釧路町に住む)。

・釧路から網走の間に自然観光資源が多くあり、釧路はこれら観光の拠点。有名なのは釧路湿原、阿寒湖、動物園等。釧路市だけ見て帰る人は珍しい(そうでしょうね汗)。

・この間たまたま帯広に出張してきたが、帯広駅はきれい。帯広市は音更長、芽室町幕別町という衛星都市的な自治体が周りを取り囲み、都市圏的な発展が進んでいる。

・釧路での名物はスパかつ(スパゲティの上にとんかつがのっている?)。またそば。東屋が良い。のれん分けしているので市内にいくつかある。和商市場の勝手丼は完全に観光客向けであり、すぐに3~4千円になるので要注意。普通に海鮮丼などを食べることで良い。コンフォートホテル前にある居酒屋酒楽のランチ500円も地元の人には人気。

・幣舞橋もコロナ禍前のインバウンド観光ブームの際は外国人観光客でごった返していた(想像がつかない)。

霧の街というのが今回、一番の発見だった。まあ、釧路湿原が有名なくらいですから。

晴天になるのはむしろ冬の時期のよう。カラッと晴れた大地、とはまた別のイメージの北海道があることに気づかされた旅でした。

 

 

 

 

「モノより思い出」なんじゃなくて「モノにも思い出」

「モノより思い出」という言い方がありましたが、モノだって単なる物理的な物体ではなく、所有者である本人にとっては思い出なんですね。

シニアが人生でため込んできたモノの”断捨離”に苦闘する番組を見て感じました。

カナダのテレビ番組でした。

ちなみに、断捨離、コンマリなど、片づけブームですが、そんな外圧がないと家の中にモノが溢れてなかなか片付かないのは、先進国共通の悩みなのかしれません。

登場するカナダのシニアの家はそれぞれモノにあふれています。

ジャマイカ系カナダ人の90歳の女性は、3人の娘が自分のモノを勝手に片づけていく様子を、不自由になってきた体をソファに沈めて不満げに眺めています。

香港から移民した60歳過ぎのシニアの男性は、引っ越しを決断したものの、引っ越し先に入りきらないモノの処分に悩み始めます。

最後の女性も大きな一軒家から引っ越すに際し、亡き夫との思い出に詰まった家具に緑のテープを次々と貼ってしまいます(業者からの指示で、持っていくものには緑のテープ、持っていかないものには赤いテープを貼ることになっています)。

 なぜ人はモノにスペースを侵食され、また、これほどまでに何年も経ってもなかなか捨てることができないのでしょうか。

一番考えられるのは、お金を払って買ったんだからもったいないという動機でしょう。僕もそれは一番に考えます。

でもそれだけでもないんだろうなと感じました。

モノにも思い出が詰まっているんです。

もちろん、百円ショップで買ったような安い生活用品は、必要性にかられて購入しただけで、思い入れや思い出、こだわりはないかもしれません。

それでも購入の時には、便利になる生活を思い描き、値段と効用(得られるベネフィット)を天秤にかけ、自分にとって有益であるから決断したと思います。それはその人にしかわからないストーリーのはずです。

百円ショップで買ったものでさえそうだとすると、もっと高額な購入品には当然のことながら、さらに思い出深いストーリーがついて回っているはずです。

人はこの思い出、思い入れやストーリーを覚えているから、捨てられないのでしょう。

そして、それらの思い出、思い出やストーリーは基本的には本人にしかわかりません。

だからこそ、傍から見たら、どう考えても不要なもの、時代遅れなものでも本人にとっては捨てられないことが多々あるのだと思います。

また、物には自分が何が好きで、さらに突き詰めていくと自分が何者であるかの確認方法や表現方法という側面もあると思います。

例えば百円ショップで購入したキッチングッズ(でも何でも良いですが)の色が、なぜ黄色でなく赤なのか。黄色も売っていたのなぜわざわざ赤い方を選んだ理由は、赤がもともと好きという本人の嗜好が反映されています。

私たちはモノを購入するにあたり、自分が何を好きなのか、また自分はどういう嗜好・考えを持っているのか確認していることがあると思います。

洋服の広告が「自分らしい装い」、住宅の広告が「好きが詰まった家」といって消費を迫ってくるのは、売る側はモノのこのような機能をよく知っているからです。

だから買い物は楽しいのです。

さらには、骨とう品やアンティークが古いのに価値が出るのは、歴史の中に自分が一部として位置づけられるという価値も見出しているのでしょう。

ところで、冒頭のテレビ番組のカナダの男性は、亡き妻の親類縁者(カナダでは名門一族らしいです)が亡くなるごとに、その遺贈品(骨董品)を受け取り、あふれた遺贈品を外部倉庫に保管しておくために、20年間にわたりなんと毎月20万円も倉庫代として支払っていたそうです。

ところが、彼は倉庫にある多くの段ボール箱の中に一体何が入っているのか知らずさえいて、途方に暮れて、古物商に鑑定を依頼したりします。

彼にとっては、何が入っているのか知らないくらいなので、これらの遺贈品にモノとして思い入れがあるわけではないでしょう。自分の嗜好や考えを、これらのモノに反映させているのではないです。

一方で、彼にとってのこれらのモノの意味は、愛した妻(けど亡くなってしまった)の血縁者が亡くなるたびに、その遺品を毎回受け取り、長年保管してきたという妻との思い出・ストーリー・誇りこそが捨てられない原因なのでしょう。

さて、どんなに思い入れやストーリーがあったとしても、物には制約があります。

まずは、この男性のように、モノは場所をとり、管理しきれない問題が生じます。スペース的に管理しきれないだけでなく、そもそも何があったかさえも把握できないという問題も生じます。

さらに日用品であれば棄損・劣化していきます。

こうして、モノは他人だけでなく老いた自分にも迷惑をかけ始める存在となります。

特に先進国を始めとして高齢化が進展して人が生きる時間が長くなると、累積したモノの数は多くなり、また、長い時間を経る中で劣化や忘れられる度合いも大きくなっていきます。

これらに私たちはどのように対処すべきでしょうか。

物は思い出、物は自分が何者であるかの確認方法・表現方法だと述べました。

そうであれば、その思い出と表現方法だけを残すようなサービスがあれば、断捨離はよりスムーズにいくのではないかもしれません。

例えば、断捨離の際に捨てるかどうかどうしても悩むものがあれば、画像に撮って、ストーリーを付け加えて、いつでもネットで閲覧できるようなアプリの開発などが考えられるかもしれません。

これはモノの物理的な側面だけを除去し、思い出や思い入れという側面だけを残す方法です。

このようにすれば捨てた後でも、アプリを通して、思い出や思い入れを見返すことができます。また、捨てないで、他の人に譲った場合、譲られた人にこのような情報を共有することも良いかもしれません。

さて、冒頭のカナダのテレビ番組の原題は、「ダウンサイジングの美学(アート)」でした。

モノを片付けることをアートとして表現するためにも、テクノロジーが活躍する場があるのではと思います。

FIREブームの本質はメンバーシップ型雇用の嫌悪

早期リタイアを実現する「FIREファイアFinancial IndependenceRetire Early)」がブームになっています。

僕も非常に興味があるので、FIREを達成した人のSNSなどをよく見ます。

 

その中で、これまではFIREを達成するため、いかに金融資産を積み上げるかの手法・情報、つまりFIREのFIに注目していましたが、FIREを達成した後に、毎日何をしているのかという、FIREのREの方に目がいくようになりました。

Retireなので、基本的には労働からは解放されて、毎日遊ぶ、何もしない、イメージです。しかし、REの実態は傾向は以下のようにまとめられるかと思います。

 

1.ほぼ全ての人がブログを書いている

基本的に発信のプラットフォームとして、FIRE達成後もブログを書いています。

ツイッターYoutube、Voicyなどの他のSNSをやっている人でも、ブログを併用していることが多いです。

また、ブログ自体がリタイア後の収益源になっていることもあります。

ブログは、比較的手軽に更新できるSNSとして、リタイア生活にリズムを与えるという意味では相性が良いのかもしれません。

 

2.何らかの労働はしている

リタイアと言っても、完全に働くことをやめるわけではなく、多様な労働を行っていることがわかります。

ただし、本当に多様です。

金融資産をそこそこ持っていても、小銭を稼ぐために日雇い労働的なことをやっている人もいれば、現役時代の職務経験を生かして単発で稼ぐ人、さらには、上記の通りブログを始めとしたSNSで稼ぐ人などいろいろです。

テレビで取り上げられていた人で、自転車が趣味らしいのですが、Uber eatsで趣味と実益を兼ねて配達で稼いでいると言っていました。

 

3.資格取得に走る人もいる

結構意外だったのが、せっかく(?)リタイアしたのに資格取得を目指す人がいることでした。

大手企業を辞めて、前職とは全く関係のないガテン系の資格(除雪機械運転員資格基準)を目指す人もいます。また公務員をやっていた人で、社会保険労務士の資格を目指している人もいます。

ただし、この資格で食べていくんだ、というよう決意や必要性があるわけではなく、あくまでも短時間で稼ぐため、もしくは、地域に貢献したいというもう少し軽い動機からのようです。

 

4.時間を自由に使える主体性を取り戻したかったという動機を語る人が多い

なぜ、FIREを目指したのかという動機として、「ゆっくり寝たかった」、「好きなだけゲームをしたかった」、などの時間の主体的管理の可能性を語る人が多いです。

このためFIRE後に労働を行うとしても、あくまでも、短時間であったり、自分の裁量で時間を区切った形態で労働する人が多いようです。

 

FIREの本質は4.の時間を主体性を取り戻すことではないでしょうか。

FIRE後に、金融資産があっても、それなりに働いていること、また、資格取得を目指す人までいることは、労働自体はそれ程苦にしていないことを物語っているのではないかと思います。

このことは、つまり日本のメンバーシップ型雇用における「職務内容、勤務地、異動の有無には文句は言えない」という正規職員の時間の主体性を奪われるデメリットを、多くの人が嫌悪していることを示しているに他ならないと思います。

ただし、SNSで発信しているFIRE達成者だけから把握した傾向なので、積極的に発信していないFIRE達成者の中には、本当になにもしないで暮らしている人もいるのかもしれません。

それでも、やはり、労働は人間にDNAレベルで組み込まれているものだとすると、また、人間には承認欲求があるため、FIRE後に金銭的動機ではないとしても何をするかを決めておくことが、スムースなFIREへの移行に役立つのではないかと思います。

 

 

狭い部屋にこそ大きな家具を(ソファダイニングが最高です)

ワンルームマンションで、在宅勤務をしています。

 

広さは21平米くらい、典型的なワンルームで広さは22平米くらいです。狭いです。生活するには全般的に狭いのでもちろん不満があります。

洗面台は半独立でトイレと風呂の脱衣場を兼ねていたりします。

室内洗濯機置き場は玄関の開き扉の中です。

ただし、都心5区で、立地が抜群によいので、立地重視です。

 

昨年コロナ禍になり、勤め先が在宅勤務になった時は焦りました。

デスクもチェアもなかったので、ニトリに走りました。

ところが、緊急事態宣言が初めて出ている中、皆さん考えることは同じですね。

ニトリでは、商品が色々品薄になっていた気がします。

ちなみに緊急事態宣言でも開店していたニトリには感謝。

というか、稼ぎ時に敏いニトリということでしょうか。

 

そのような中でしたが、色々悩み、また、新宿店、渋谷店、さらには郊外の店舗にまで出張って結局決めたのが、デスクとチェアではなく、ソファとテーブルの購入です。

理由は、デスクとチェアを買ってしまうと、仕事はそこですれば良いとして、食事はどうするんだ!?となります。

デスクとチェアで食べることはできますが、若干落ち着きません。

だからといえ、ワンルームにデスク/チェア、テーブル/ソファの双方を入れることは広さ上無理です。

 

そこで、テーブル/ソファを優先することにしました。そしてデスク/チェアはあきらめる。あきらめる、というか、テーブル/ソファで仕事をすることにしました。

さらび、通常ソファにはローテーブルを合わせますが、普通のテーブルを合わせることにしました。

ますは、そのテーブルがこちらです。

 

 


テーブル 折りたたみテーブル 折りたたみ 軽量 折りたたみデスク(フレッタ DBR) 無地 シンプル ベーシック ブラウン スチール パソコンデスク PCデスク ワークデスク テーブル テレワーク 在宅 折りたたみ テーブル ニトリ 【玄関先迄納品】

 

はい、かなりチープなものではあります。

当時のニトリで売っている最も安価なテーブルだと思います。

安さはもちろん目的でしたが、大きさ(コンパクトであること)と折りたためること(引っ越し想定)も重視して決めました。 

それでも、渋谷店では品切れのところ、郊外店まで行けばあります、と店員にいわれたので、わざわざ足を運んだら、品切れと言われたので事情を説明したら(半分クレーム)、どこからか優先的に確保してくれて、送料無料で送付してくれました。

それにしても、2000円でこのクオリティは、1年たった今でもものすごいコストパフォマンスの良さだと思います。

当時は、ソファに合わせるので、くつろぐときのためのローテーブルも兼ねるように昇降式テーブルも検討したのですが、1万円以上もする昇降式テーブルより、このテーブルを買って大正解でした。昇降なんて面倒くさいことする必要ないし、高さ固定で十分です。

 

また、このテーブルに合わせて買ったソファはこちらです。

 
2人用布張りソファ (エイミー) ニトリ 【玄関先迄納品】 【1年保証】

 

こちらもニトリの2人用ソファでは一番安いものではないかと思います。

ポイントは2人用という点です。狭いワンルームだと、安易に一人用ソファや座椅子を選ぶ発想になりがちです。

しかしそこをあえて2人用にすることで、余裕をもって座れることができ、また勤務も食事もくつろぎもこれ一つでまかなえるようにしました。

これも大正解でした。

確かに、PCが置いてあるテーブルで、仕事もして、その後片づけて食事もって、ちょっと最初は抵抗あったのですが、慣れます。

そして、慣れよりも何も、特にテレビをテーブルを挟んだ対面に配置しているため、結局、ここが1番快適で何をするにも心地よくなります。

ソファの横にサイドテーブルを置き、テレビのリモコンやペンなどの小物、また、スマホの充電も行えば、全てが手を伸ばす範囲に配置されて、動く必要がありません。

手が届く範囲に何でもあった学生の時の一人暮らしに戻っていますが、150平米のマンションに住んだ時も、結局ソファで食事をしていたことを思い出すと、一人暮らしではダイニングとリビングはわけなくてソファダイニングで兼用するのが良いのではと思います。

ワンルームとなると、あまり大きな家具を入れると圧迫感があると想像して、座椅子、一人用ソファなどで済まそうという発想がわきがちです。

でも狭いワンルームだからこそ、二人用ソファをどんと入れて、ここをあらゆる生活の居場所としたことは正解でした。

ちまちました家具を買うより、狭い部屋にこそ大きな家具を少数入れて、スペースを区切ることによりメリハリをつけた方が良いと思います。

また在宅勤務用に書斎スペースにオフィスっぽいデスクとチェアを買うより、ソファダイニングとする方が快適かもしれません。

テレビとスマホもあればほぼ一日中過ごせます。

 

なお、僕のようなチープなセットでも十分快適に過ごせることがわかりましたが、もちろんお高いもの高級なものもたくさんあると思いますので、広い家でも実践可能です。

例えばこんな感じですね。


ヴィンテージ風 リビングダイニングテーブル3点セット REGALD リガルド テーブル幅130 2人掛けソファ 2人掛け左アームソファ ダイニングテーブルセット ダイニングセット テーブルダイニングセット おしゃれ リビング テーブル ソファー ソファ セット 500028278

 

最後に、僕の使っている2人用布張りソファ (エイミー) ニトリ 【玄関先迄納品】 【1年保証】のメリットは、座面の下に空間があるということです。高さがあるので、狭いワンルームで上下の空間を有効活用しているとともに、ソファの下の掃除もしやすいというメリットも、購入後に気づきました。

座面の下がふかふかで厚いものは、ワンルームには避けた方が良いかもしれません。

誰もが語り部になる時代

テレビを見ていたら、静岡で徳川家康語り部をやっているという女性がいました。ちらっとしか見なかったので、詳しくはよくわかりませんが、徳川家康人間性を崇拝していて、いろんな人に伝えたくて仕方がない、という感じが良くわかりました。

僕は徳川家康にはほとんど関心がありません。このため、この女性を見た感想は、まず人間の関心って本当に多様だなということですが、本題はどちらかというと、語ることがある人は強いなとおもわされたことです。

語れる人、もしくはストーリーテラーは人をひきつけます。徳川家康に関心があれば、その内容に引き付けられますし、関心がなくても、この人はどうして家康に関心があるんだろうと考えさせられることになります。

すくなくとも何も語らないひとよりは、人を引き付けることは確実です。

ところで、「語り部」と聞くと、僕は真っ先に、戦争の悲惨さを後世に伝えるために、被爆者の方が学校を回り、若い人たちに如何に戦争が悲惨であり、また、原爆の被害が恐ろしいかを伝える姿を思い浮かべます。

それくらい、「語り部」というのは、(特にネガティブな)特別な経験をした人が信念に突き動かされて、その経験を語るためにやるというイメージがあったのですが、この徳川家康語り部の人を見て、考えが改まりました。

まず、個々人の関心が多様であることは昔からの人間の特性で変化はないかもしれません。家康に関心がある人、ない人、はそれぞれ昔もいたと思います。

ところが、現代社会はどんどん複雑化・高度化していきます。そうすると人々の関心の向き先が増えていることになります。関心が細分化されます。

そして、人々の生き方も急速に多様化すると、生きていくうえで得られる経験もさらに多様化します。また人々の生き方は関心に作用されて方向付けられていくことも多いでしょう。

そして、これを関心×経験の掛け算で考えると、個人が語れることは等比級的に数を増やしていっていることとなります。

とこが、これだけでは、まだまだ誰もが語り部になれるわけではありません。

徳川家康語り部の女性は、家康のゆかりの地である静岡で、カフェかなんかを開いて人々に語っているようでした。そこには、家康にある程度関心がある人が集まってくるでしょう。

また、原爆の語り部は基本的には広島や長崎を中心に活動していると思います。広島や長崎であれば、市役所や教育委員会が中心に、市民や学生のために語り部が語る機会を設けるなどのアレンジも、定期的に行われるのだと思います。

このように従来の語り部は聞いてくれる人が、物理的に集まることで成り立ちました。

しかし、例えば遠方に関心がある人にはアクセスできなかったのです。北海道に住む徳川家康ファンは基本的には静岡まで旅行しないと、家康の語り部の話は聞けないし、いわんをや語り部の存在にすら気づかなかったかもしれません。

それを変えたのが、SNSの発達です。このブログもそうですし、動画、音声などで個人が発信できる環境が整ったことで、誰もが聞いてくれる人を持つこと、すなわち語り部稼業ができるようになりました。

もちろん、語り部として発見されて、また、語る内容を評価してくれるかどうかは別の話ですが、少なくとも環境は整ったということです。

最後に語り部というと、依然として、「後世に伝承していくため」というイメージがあり大げさかもしれません。

後世に伝承する必要はなくても、自分の考えをリアルだけでなく、SNSによりネット空間にて伝えていく、そして、それが物理的な制約を超えて人を引き付けるという意義を有し、またこの意味がますます重要になる時代がやってきているのではないかと思います。