税所(さいしょ)の日記

IQ122(全検査数値)の高機能自閉症”グレーゾーン”の頭の中身。

「モノより思い出」なんじゃなくて「モノにも思い出」

「モノより思い出」という言い方がありましたが、モノだって単なる物理的な物体ではなく、所有者である本人にとっては思い出なんですね。

シニアが人生でため込んできたモノの”断捨離”に苦闘する番組を見て感じました。

カナダのテレビ番組でした。

ちなみに、断捨離、コンマリなど、片づけブームですが、そんな外圧がないと家の中にモノが溢れてなかなか片付かないのは、先進国共通の悩みなのかしれません。

登場するカナダのシニアの家はそれぞれモノにあふれています。

ジャマイカ系カナダ人の90歳の女性は、3人の娘が自分のモノを勝手に片づけていく様子を、不自由になってきた体をソファに沈めて不満げに眺めています。

香港から移民した60歳過ぎのシニアの男性は、引っ越しを決断したものの、引っ越し先に入りきらないモノの処分に悩み始めます。

最後の女性も大きな一軒家から引っ越すに際し、亡き夫との思い出に詰まった家具に緑のテープを次々と貼ってしまいます(業者からの指示で、持っていくものには緑のテープ、持っていかないものには赤いテープを貼ることになっています)。

 なぜ人はモノにスペースを侵食され、また、これほどまでに何年も経ってもなかなか捨てることができないのでしょうか。

一番考えられるのは、お金を払って買ったんだからもったいないという動機でしょう。僕もそれは一番に考えます。

でもそれだけでもないんだろうなと感じました。

モノにも思い出が詰まっているんです。

もちろん、百円ショップで買ったような安い生活用品は、必要性にかられて購入しただけで、思い入れや思い出、こだわりはないかもしれません。

それでも購入の時には、便利になる生活を思い描き、値段と効用(得られるベネフィット)を天秤にかけ、自分にとって有益であるから決断したと思います。それはその人にしかわからないストーリーのはずです。

百円ショップで買ったものでさえそうだとすると、もっと高額な購入品には当然のことながら、さらに思い出深いストーリーがついて回っているはずです。

人はこの思い出、思い入れやストーリーを覚えているから、捨てられないのでしょう。

そして、それらの思い出、思い出やストーリーは基本的には本人にしかわかりません。

だからこそ、傍から見たら、どう考えても不要なもの、時代遅れなものでも本人にとっては捨てられないことが多々あるのだと思います。

また、物には自分が何が好きで、さらに突き詰めていくと自分が何者であるかの確認方法や表現方法という側面もあると思います。

例えば百円ショップで購入したキッチングッズ(でも何でも良いですが)の色が、なぜ黄色でなく赤なのか。黄色も売っていたのなぜわざわざ赤い方を選んだ理由は、赤がもともと好きという本人の嗜好が反映されています。

私たちはモノを購入するにあたり、自分が何を好きなのか、また自分はどういう嗜好・考えを持っているのか確認していることがあると思います。

洋服の広告が「自分らしい装い」、住宅の広告が「好きが詰まった家」といって消費を迫ってくるのは、売る側はモノのこのような機能をよく知っているからです。

だから買い物は楽しいのです。

さらには、骨とう品やアンティークが古いのに価値が出るのは、歴史の中に自分が一部として位置づけられるという価値も見出しているのでしょう。

ところで、冒頭のテレビ番組のカナダの男性は、亡き妻の親類縁者(カナダでは名門一族らしいです)が亡くなるごとに、その遺贈品(骨董品)を受け取り、あふれた遺贈品を外部倉庫に保管しておくために、20年間にわたりなんと毎月20万円も倉庫代として支払っていたそうです。

ところが、彼は倉庫にある多くの段ボール箱の中に一体何が入っているのか知らずさえいて、途方に暮れて、古物商に鑑定を依頼したりします。

彼にとっては、何が入っているのか知らないくらいなので、これらの遺贈品にモノとして思い入れがあるわけではないでしょう。自分の嗜好や考えを、これらのモノに反映させているのではないです。

一方で、彼にとってのこれらのモノの意味は、愛した妻(けど亡くなってしまった)の血縁者が亡くなるたびに、その遺品を毎回受け取り、長年保管してきたという妻との思い出・ストーリー・誇りこそが捨てられない原因なのでしょう。

さて、どんなに思い入れやストーリーがあったとしても、物には制約があります。

まずは、この男性のように、モノは場所をとり、管理しきれない問題が生じます。スペース的に管理しきれないだけでなく、そもそも何があったかさえも把握できないという問題も生じます。

さらに日用品であれば棄損・劣化していきます。

こうして、モノは他人だけでなく老いた自分にも迷惑をかけ始める存在となります。

特に先進国を始めとして高齢化が進展して人が生きる時間が長くなると、累積したモノの数は多くなり、また、長い時間を経る中で劣化や忘れられる度合いも大きくなっていきます。

これらに私たちはどのように対処すべきでしょうか。

物は思い出、物は自分が何者であるかの確認方法・表現方法だと述べました。

そうであれば、その思い出と表現方法だけを残すようなサービスがあれば、断捨離はよりスムーズにいくのではないかもしれません。

例えば、断捨離の際に捨てるかどうかどうしても悩むものがあれば、画像に撮って、ストーリーを付け加えて、いつでもネットで閲覧できるようなアプリの開発などが考えられるかもしれません。

これはモノの物理的な側面だけを除去し、思い出や思い入れという側面だけを残す方法です。

このようにすれば捨てた後でも、アプリを通して、思い出や思い入れを見返すことができます。また、捨てないで、他の人に譲った場合、譲られた人にこのような情報を共有することも良いかもしれません。

さて、冒頭のカナダのテレビ番組の原題は、「ダウンサイジングの美学(アート)」でした。

モノを片付けることをアートとして表現するためにも、テクノロジーが活躍する場があるのではと思います。