「幸せです」と「幸せということなんでしょうね」の圧倒的な距離
あるテレビ番組で、一般の高齢女性が2人とりあげられて、1人は「幸せです」と言い、もう1人は「幸せと言うことなんでしょう」と言っているのを見ました。
この2人、両者とも自分が幸せだ、と同じようなことを言いつつ、でも全く違う心情なんだろうなと感じさせられました。
まず、「幸せです」と言った女性は、なんと御年91歳。
私鉄沿線にある有名な街中華の女将で、91歳になった今でも、現役で厨房に立ち、野菜の下ごしらえから、重い缶に入っている調味料の小分けなどの管理まで細腕でこなし、現役でバリバリ働いている。
ご主人は亡くなっているようだけれども、息子さん夫婦と一緒に店を切り盛りし、お孫さんや、さらにはひ孫までいる模様。
その彼女が、1日の仕事を終えたところで、控えめながら、きっぱりと言っていたのがこの「幸せです」という言葉でした。
91歳にもなれば、もちろん体力の衰えもあるだろうし、実際1日の仕事が終わると疲れると言うことも言っていたので、大変な事は大変でしょう。
でも、毎日厨房に立ち、お客さんのためにおいしい中華料理を作り、それを提供すると言うことに喜びを感じていることが、その言葉にはっきりと込められていることがわかりました。
なお、この中華料理店は事情があり廃業になるとのことで、その閉店を追うドキュメントだったので、廃業すること自体はもちろん残念そうでした。
廃業後の彼女は一緒に店を切り盛りしてきた息子夫婦やお孫さんと暮らすそうですが、「幸せです」と言い切れるようになるのかどうかまでは分かりません。
もう1人の「幸せと言うことなんでしょう」と言っていた女性の放映部分は、途中からしか見ていないので、この女性の、年齢も含めて背景や事情はちょっとよくわかりませんでした。
でも、リフォームされたきれいな家で、同居か近くの別居かよくわからないけれど、娘さん達ともすぐに会える環境で、何不自由なく暮らしている感じの女性でした。
実際横には娘さんらしき方が見守っていました。
ただし、こちらの女性は、特段もう働いておらず、悠々自適の生活という感じでした。
なお、この女性もご主人はもういない模様。
家もある、食べるものもある、着るものもある。そして、ご主人はいないけど、娘さんたちもいるから孤独や孤立をしている老人と言うわけでもない。
端から見れば万々歳な老後で何不自由ない生活に見えます。
その女性がカメラを向けられて、幸せですかと問われた時に、コメントしていた言葉が、この「幸せと言うことなんでしょうね」と言う言葉でした。
「幸せです」、と言ったわけではないんです。
この「幸せと言うことなんでしょうね」、とどこか冷めたような感想を言ったことに、税所は衝撃を受けたのです。
そこには、「世間一般から見れば、恵まれた幸せな生活を送っていると言うことなんでしょうけれども、実は私の心の中では…」というこの女性の心情吐露が垣間見える感じがしたのです。
もちろん、この女性がテレビカメラの前で控えめに、「幸せと言うことなんでしょうね」と言っただけなのかもしれません。本当はものすごく幸せに感じているのかもしれません。
本音はご本人のみぞ知るところです。
でも、やはり彼女の口から「幸せです」ではなく、「幸せと言う事なんでしょうね」と発せられたことは、大きな意味があると思っています。
人間は食事足りて孤独や孤立していなくても、それだけでは必ずしも幸せを感じないのではないのではないか、と言うことを強く感じたのです。
中華料理店の女性のように、自分の能力や技術や特技を活かし、労働などの形で他人のために貢献すると言う環境が、本当の幸せためには必要なんだなということを思わせられました。
恵まれた環境にいる、家も金も時間もある、だけど、必ずしもそれが「幸せだ」と言い切ることにつながらない。
人間は、長年労働することで生きながらえてきました。
そのDNAが私たちの脳みそには、深く深く埋め込まれていて、幸せを感じるには、労働などにより、他の人に役立っている、認められる、有用感を感じることなどが必要だと言うことを強く痛感させられた、「幸せです」と「幸せと言うことなんでしょうね」と言う2つのコメントでした。