「死ぬまで生きたくない」のだ。「生きているうちに死にたい」のだ。
わたしたちは基本的には「死ぬまで生き」ます。
当たり前のことです。
でもこの「死ぬまで」には、健康で自分らしく生きられる年代のあとに、年老いて、病気になるなど自分らしく生きられなくなる時間が含まれています。
口から食事が食べられなくなったら、食べてもむせ込んで肺炎などを起こしやすいので、直接胃に栄養を入れる栄養投与の方法、胃瘻が施されます。
老衰で体力が弱り呼吸器も弱った時には、人工呼吸器がつけられます。
このような医療行為としての延命治療の他にも
自分でトイレに行けずに、排泄がままならなくなったとき、介助を受けながら排泄することも、広義の意味では延命治療ではないかと思っています。
いずれにしても、現代の日本では、可能な限りの延命治療が行われ、「死ぬまで」生きさせてくれる医療体制になっています。
現代社会は、私たちが自分で死ぬタイミングを決める権利がない社会ともいえます。
もちろん、自分はどんなことをしてでも(されてでも?)1秒でも長く生きたいんだ!という方の意思はもちろん尊重されることで良いと思います。
人類が発展させてきた医療のおかげで、それはどんどん可能になりました。
でも例えば意識もない中で、胃瘻や人工呼吸などにより一分1秒でも長く生きている事は、果たして私たちが望んでいることなのでしょうか。
少なくとも、自分らしく生きていると言う事は全くないと思います。
でも、本人の意識がなくなった状態でも、本人が意思を表現できなくなっている場合に、医師は家族からの要請があれば延命治療を行わないわけにはいきません。
そんな状態で生きることが本人が自分らしい生き方と思っていたのかどうかわからないのにです。
排泄介助も、そこまでしてもらわないといけないのであれば、もう放っておいてくれていいよ、と思う方も多いのではないでしょうか。
「死ぬまで生き」る事は、必ずしも最後の瞬間まで自分らしく生ききれることでは無いのです。
税所が考える、「自分らしく生きる」の最低限は、食物を自分の口で食べる、またトイレに自分で行って排泄できることだと思っています。
これらができなくなったら、もう自分らしく生きているとは言えないので、命を終わりにしたいです。
命の終わるタイミングを自分で決めたいです。死にも自己責任、自己決定の権利が欲しいです。
そう、「死ぬまで生きたくない」のです。「生きているうちに死にたい」からなのです。