税所(さいしょ)の日記

IQ122(全検査数値)の高機能自閉症”グレーゾーン”の頭の中身。

新宿デパート戦争(伊勢丹新宿店vsタカシマヤタイムズスクエア)

新宿を代表するデパートといえば、伊勢丹新宿店とタカシマヤタイムズスクエア高島屋)です。両店は何かと対照的で面白いので、比較してみました。

ちなみに、この2店以外の新宿のデパートは小田急百貨店京王百貨店。これら両店は電鉄系のデパートです。

世界一のターミナルである新宿にデパートが4つしかないのは、意外と少ない印象です。

なお、小田急百貨店京王百貨店は、電鉄系であり、またそれゆえに毛色が結構違うので、今回の比較の対象から外しています。

 

1.立地

伊勢丹新宿店)

新宿東口の商圏のど真ん中に鎮座するのが伊勢丹新宿店。新宿三丁目の交差点から見える外観は、伊勢丹の伊の字のマークとともにアールデコ様式の建物の威容が新宿のランドマークとして有名。

JR新宿駅からは、地下道で直結しているが、徒歩5分以上を要します。最寄りの駅は丸ノ内線でいうと新宿駅ではなく、新宿三丁目駅になります。

また、都営新宿線副都心線新宿三丁目駅も最寄り駅です。

これら3線の駅からは地下直結でアクセス可能。まさに、新宿を代表するデパートといえます。

 

タカシマヤタイムズスクエア

こちらもJR新宿駅の東側に位置するものの、新宿を東西に横断する甲州街道の南側に立地し、新宿東口の商圏からは外れた印象です。

なんといっても住所は渋谷区です。ちなみに、甲州街道が新宿区と渋谷区の境界線です。JR新宿駅も、南口は住所区分は渋谷区となります。

タカシマヤタイムズスクエアは、JR新宿駅の南口とは歩行者デッキと直結しています。このため、JR駅からのアクセスは意外と便利な感じです。

また、伊勢丹新宿店と同様に地下道で地下鉄3線の新宿三丁目駅とは直結しています。

つまり、伊勢丹新宿店とタカシマヤタイムズスクエアは、地下道で相互につながっていて、雨に濡れずに両店のはしご訪問ができます(ただし、両店の間の距離は数百メートルあり、徒歩5分以上は見積もっておいた方が良いです)。

 

2.歴史

伊勢丹新宿店)

伊勢丹の開店は1933年と第二次世界大戦前と古いです。あと10年もすれば、100周年で盛大にイベントをやるんでしょうね。

新宿に来るまでは、なんと神田に立地していたらしい。また当時の称号は伊勢谷丹治呉服店呉服店が発祥であるところが、アパレルに強い伊勢丹を物語っています。

1930年に新宿に移転することを英断。

当時は、新宿から中央線や京王線が西に伸び始め、新宿がターミナル駅として頭角を現してきた頃。また、1923年に関東大震災が発生し、都心西側の地盤の良さが見直されたことが理由らしい。

先見の明があるとはこういうことですね。先行者利益により新宿の中でも抜群の立地を手に入れています。

というか、伊勢丹新宿店を中心として、新宿東口の商圏が発展したということでしょう。

 

タカシマヤタイムズスクエア

カタカナを前面に押し出した名称からもわかる通り、タカシマヤタイムズスクエアの歴史は浅いです。開店はバブル崩壊後の1996年。伊勢丹新宿店の歴史の半分もないです。

JR新宿駅の改札が、当時は甲州街道の北側で完結していた中、新宿貨物駅の跡地を転用する形で甲州街道の南側の土地に開業。土地のオーナーは国鉄の資産を管理していた清算事業団で、賃借する形でした。

そして、JR新宿駅の改札が、甲州街道の南側に初めて開業したのは遅れること2006年。

このため、当初、JR新宿駅からの利用者がタカシマヤタイムズスクエアに来るには、甲州街道を超える必要がありました。

また、住所は渋谷区、さらにJR代々木駅も近い。開店当初の集客の苦労がしのばれます。実際、開店から赤字続きだったらしいです。

 

3.建物

伊勢丹新宿店)

伊勢丹の建物は古い!

なんといっても1933年開業です。アールデコ様式の概観は美しいものの、それは建物の南側と東側のみ。北側及び西側にまわると、建物の老朽化は外見からも否応ない。さすがに補強やら改修は重ねてきているとは思うが、耐震がいつの建築基準に依っているのか心配になるレベル。

また、伊勢丹新宿店といえばメンズ館が有名です。本館とメンズ館は別々の建物なのですが、メンズ館の本館側の入り口は、若干バックヤード的な裏道を渡ったところにあり、往来する際にテンションが下がります。

この両館のアプローチにおける高揚感の確保には工夫が必要でしょう。駐車場も近いので、スタッフが常に誘導しているところ、大変そうだ。

ちなみに本館とメンズ館は地下でも直結しているので、地下道からアクセスすればバックヤード感を味わわなくて済む。

本館とメンズ館とも建物が古い、内装はアップデートされているので古さは感じないが、天井高や通路の幅に窮屈さがある。また、建物自体も7階建てとあまり高くなく、商品の陳列も密度が高い印象。休日などは人込みをかき分ける感じ。

本館の屋上に出ると、アイガーデンという庭園がある。植栽はきれいに整えられているが、周囲の建物のほうが高く、屋上にいても見下ろされている感があり。新宿の眺望を楽しむなどには程遠く、また、空調の音がうるさい。

 

タカシマヤタイムズスクエア

JRの電車が南側から新宿駅に入線する際に、右手に華やかな外観が目に入る、14階建ての近代的なビルがタカシマヤタイムズスクエアです。さすがは貨物駅の用地を転用しただけありスペース的には制約感がなく設計されている。

入店しても、1階の天井高は2フロア分確保され、開放感があり気持ち良い(なお1階はデパートの例にもれなく化粧品売り場が中心)。

そして、タカシマヤタイムズスクエアの構造的な特徴として大きいのはなんといってもエスカレーター。各フロアに2カ所あるが、これらのエスカレーターが複々線なのである。

どういうことかというと、通常、エスカレーターの上方向と下方向の乗り口はそれぞれ反対側にある(例:上方向の乗り口がある箇所から下に行こうと思ったら、反対側に回らないといけない)複線構造だが、タカシマヤタイムズスクエアエスカレーターは複々線であるため、どちらの側からも上方向にも下方向にもいけるのである。

あるフロアから、上の階に行きたいときも、下の階に行きたいときも、エスカレーターの反対側にぐるっと回る必要がない。大した時間の差ではないかもしれないが、これがとても便利。

また、伊勢丹新宿店ではメンズ館が別の建物にあったが、タカシマヤタイムズスクエアでは、各フロアの北側がメンズ、南側がレディースで分かれており、例えばレディースは2~5階、メンズは6~7階という従来のデパートの配置より、同フロアでメンズとレディースの両方を見て回れる構造になる。

男女カップルや夫婦の買い物にも向いているといえる。

さらに、レストランなどが入っている12~14階のフロアも、中央エスカレーター部分が吹き抜けとなっており、開放感があり気持ち良い。また、12~14階の高層レベルになると、新宿でも高いほうになり(新宿は西口に高層ビルが林立するが、東口はそれほどない)、窓からの眺望における遮り感もぐっと減り、見通しが良い。

 

4.品揃え(入っている店舗)

伊勢丹新宿店)

伊勢丹新宿店は売上高日本一です。2020年の売上高は2740億円。

第2位のうめだ阪急は2412億円とダントツの一位。

そして、伊勢谷丹治呉服店という呉服店の発祥だけあり、ファッション・アパレルに強い。

もちろん大概のブランドは伊勢丹タカシマヤタイムズスクエアとも変わりはないが、エッジの利いたプレミアムブランドとなると、新宿では伊勢丹だけで扱っているという例が多い。メンズで言えば、例えばダウンジャケットのムーレー。

一方で、ファッション・アパレル以外には、いわゆるデパ地下の食品、化粧品と家具くらい。伊勢丹がファッション・アパレルに特化している戦略が明らかです。

これは、立地が新宿の中心にあり、建物がそれほど大きくないという環境条件に影響されていることも大きい。

なんといっても、店舗から一歩外に出れば、ユニクロも家電も(新宿ビックロ)も、アップルストア紀伊国屋もすぐにある。また、靖国通りを挟み横はすぐ歌舞伎町、東に行けば新宿二丁目の繁華街、癒しを求めれば新宿御苑もすぐという環境。

つまり、伊勢丹新宿は新宿東口という街を自らの城下に配し、アパレル・ファッションの王として君臨しつつ、新宿の商圏を大きなエコシステムとして街全体を回遊させて購買意欲を掻き立てる戦略なのだ。

 

タカシマヤタイムズスクエア

一方のタカシマヤタイムズスクエアは、新宿東口の中心からは外れ、また、建物自体はスペースに余裕があるように作られていることを逆手に取り、店舗内に量販店を呼び込み、店舗内で多様多彩なショッピングできるデザインとなっている。

びっくりするのは百貨店としての売上高の小ささ。伊勢丹新宿が日本第1位であったのに対し、こちらは第24位の717億円。

さらに新宿地区でも、第15位の小田急と第19位京王の2つの電鉄系百貨店の後塵を拝している。

伊勢丹はおろか、売上高を競う気は全くなさそう。

ではタカシマヤタイムズスクエアの特徴は何かというと、アパレル、ファッションだけでなく店舗内の縦・横移動により、ユニクロでフリース、ノジマで家電、東急ハンズでキッチングッズを購入するなど、同じ建物内で回遊をさせることだろう。

つまり店舗内のでハイエンドからデフレブランドまで取り揃え、ひとつの商圏エコシステムを構築し、客を飽きさせない仕掛けだ。

買い物の後は、台湾飲茶を楽しむもよし、スーモカウンターでマンション物件相談をするもよし。さらには、建物は別になるが家具のニトリもデッキでつながっている。

なお、12-13階のレストランフロアに東側に突き出た緑豊かなバルコニー部分。都心方向を眺望でき、眼下には新宿御苑の広大な緑が広がる。

 

というわけで、新宿を代表する2つのデパートである、伊勢丹新宿店とタカシマヤタイムズスクエアの出店の仕方、戦略は実に対照的で面白い。

新宿東口商圏を借景として、ファッション・アパレルを前面に打ち出し特化戦略を図る伊勢丹新宿は、ファッショニスタの聖地だ。伊勢丹新宿店で買ったこと自体が、ステータスであり、経験になるようブランドが確立されている。

一方の店舗内で新宿の多様性と同じくらいのショッピングの多様性を可能にするタカシマヤタイムズスクエアは、家族連れで週末に来て、ファッションだけでなく、家具から家電まで一通りみたい向きにはもってこい。店内が広々しているので、小さな子供連れやお年寄りにも向いていると思う。

このような対照的な2店が、新宿の多様性に一層の花を添えてくれている。

 

ちなみに、税所のお気に入りは、既にお分かりかと思うがタカシマヤタイムズスクエアです。ファッションに疎いことと人込みが苦手なことからも、伊勢丹新宿は欲しいものをピンポイントに探すときに赴くスタイル。

一方のタカシマヤタイムズスクエアは広々し、また、エスカレーターが充実していることからも店舗内回遊が楽しい。ユニクロノジマも覗いて、13階のガーデンから新宿御苑を見下ろしてリフレッシュという、(売り上げには貢献していない)使い方がお気に入りなのだ。

 

 

やがて哀しき年末帰省

今回の年末年始は、大晦日に実家に帰省して正月3日まで過ごしました。

 

1.年末年始は相変わらず良い天気である

税所の実家は東海地方にある。

そして、この地方、この時期の天候はとにかく快晴が多い。快晴でないお正月が記憶にないくらいだ。空は晴れやかに澄み渡り、雲一つない日が続きとても気持ち良い。

いや、大晦日に駅に着いた時一瞬だけだが、小雪というか、軽いみぞれのようなものが舞っていた。雪が降ること自体が珍しい。そしてこの小雪もあっという間に降りやんでいた。

この時期の気温は最低0度-最高10度くらいであろう。氷点下になることはめったにない。

ところが、この地域、冬には特有の乾いた風がぴゅーぴゅー吹くのだ。これがかなり厄介者。日中は晴れていて見た目には暖かそうなのだが、一歩外に出ると、この風が全身にあたり、体温を奪っていく。このため、外を歩くと体感温度はかなり低くなる。そして肌は乾燥していく。

一方で陽射しはあるので、風が避けられる屋内で窓ガラス越しに陽を浴びていれば暖かい。つまり、風にさらされるかさらされないかでかなりのギャップが生まれる天候が続く。天候だけは小さいころから変わらない。

それにしても、この時期によくある、豪雪地帯の雪かきや除雪のニュースをみると、つくづく日本は広いと思う。

 

2.実家は寒い

実家は築40年以上。とにかく寒い。

2階の和室で寝起きしたが、寝る前には温風ヒーターを消す。するとだんだんと布団から出ている顔が寒くなる。寝ていても寒くて起きる。このため2日目は布団を倍増し、顔にもかけてようやく暖をとる。しかしながら、朝起きて布団から出るのが苦痛で仕方がない。

和室の土壁に手を当てると、ひんやりなんてものではなく、冷たい。まったく断熱材が入っていない感触。40年以上前に建てられた家は断熱材がほとんど使われていなかったらしい。

和室だけではない。1階のキッチン、ダイニング、リビングのスペースは2つの石油ストーブで暖めているが、変則的な間取りなこともあり、玄関や洗面、廊下などにつながるドアが多い。これらが頻繁に開け閉めされ、さらには両親が無頓着に開け放しにしたいりするため、熱効率が非常に悪い。

さらに、一戸建てにもれなく風呂場には窓がある。入浴中も寒い。

かつてはこれが普通だと思っていたが、都会に出てマンションに一度住むとその断熱性の高さ(もしくは断熱がされていない一戸建ての寒さ)に気づく。

帰省して気づくのは親が年を取ることだけではない。家も年を取るというわけだ。いや、さらに同様に自分も年を取って寒さが身に応える。

 

3.ますます交通の便が悪くなっていく

実家はJRの駅から約2キロほど。駅までの交通は、自家用車以外であればバスという住宅街にある。なお、実家のある自治体は、人口は増加しているわけではないがここ数年はほぼ横ばいという、過疎とまではいえない地方だ。

しかしながら、この駅からのバスが、いまや多くても1時間に一本しかないのだ。

幼い頃は1時間に3本くらいあり、ある程度使える市民の足という感覚であった。ところが帰省するたびに少しずつ減便されていることには気づいていた。

そして、いまや、駅についたら下手すると1時間以上待たないといけない。このため、最近は帰省の度にタクシーを使っていた。ところが、なぜか今回はタクシーも駅の乗り場に来ない。大晦日のせいなのかどうかはわからない。2-30分待っても来る気配がないので、寒いし面倒くさくなり。徒歩で実家を目指した。

年末の夕方、自家用車はそれなりに多く行きかう市内の幹線道路をてくてく歩いても、すれ違う人はほぼない。地方では圧倒的に自家用車が足だ。このため駅前の商店街はシャッター商店街状態。歩いてしばらくすると、ユニクロサイゼリヤしまむらなどの量販店が並ぶ地域にさしかかる。どの店舗も駐車場を備え、買い物客は自家用車で出入りする。自分のような徒歩で来店している人はいない。

東京のように各駅前から商店街が広がり、買い物が便利という常識は全く通じない世界が、日本中でどんどん拡大している。

 

おまけ

ところで、ぴゅーぴゅー吹く冬の特有の乾いた風を利用して作られるこの地方の名物が干し芋。サツマイモを一度蒸してから乾燥させた保存食である。”干し”芋といいつつ、蒸してあるので水分を含み、乾物のように乾燥して固いわけではない。この干し芋が自然の甘さで超絶うまい。コンビニスイーツもだんだん食べられなくなってきている舌にちょうど良い。帰省の度に自分の食べ物の嗜好も年を取っていることに気づかされるわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の意志で生まれてきた人は一人もいないという事実

「みんな望まれて生まれてきたんやでえ」という、とある映画のキャッチコピーが物議をかもしているようですね。

 

Twitterハッシュタグでは、このキャッチコピーに対して「親にお前なんて生まなきゃ良かったといわれて育った」、「児童養護施設に行って、児童の前でそのセリフいえるか」、など、散々に批判されています。

 

僕もこのキャッチコピーは有り得ないなと思います。

 

まず、単純に事実として証明できないですね、本当にみんな望まれ生まれてきたのかどうかを。

 

できちゃった婚」などという言葉があり、望まなかった妊娠・出産が存在する事は明らかです。

 

もちろん、「できちゃった婚」で、妊娠を認識した後に「望む」出産に変化することは十分にあると思います。なにしろ、妊娠を契機に結婚を決意するに至ったわけですから、子供は望まれで生まれてきたことになります。

 

でもその場合でも、必ず100%望まれた形になるとも限りません。不本意さが残る出産はまだあると思います。

 

また、望まない性行為で強制的に妊娠というのもあります。いわゆる強制された性行為の結果ですが、その場合でも何らかの理由で堕胎という選択肢が選べなかったものもあると思います。

そして、更なる問題は、「望まれて生まれてきた」から何?というのがあります。

「みんな望まれて生まれてきたんやでえ」と言い切られてしまうと、まるで、だからお前「幸せなはずや」とか「頑張れるはずや」と、有無をいわさず背中を押されている感がするところが問題なんだと思います。

なぜなら、「望まれて生まれてきたこと」は出産時点での結果論であり、その後の人生に100%連関するものではありません。

もちろん、「望まれて生まれてきたこと」は、父母が知力・財力もそれなりしっかりしていて、恵まれた環境で子育て期間を過ごせることを意味するかもしれません。そうであれば子供時代に手厚いサポートを受けられ、幸せな子供時代をすごす事もできそうです。

しかしながら、成人してからも、「望まれて生まれてきたこと」が、必ずしも幸せを意味するわけではないことは明らかです。

また、面倒くさいのは、「望まれて生まれてきたこと」の望まれたのは妊娠、乳児期の自分だっただけかもしれない可能性もあるということです。

「赤ちゃんが欲しかった」、「子供を産むというステータスが欲しかった」と考えていたけど、産んで子供が大きくなったら、内心、子供なんで産まなきゃ良かったと思っているオトナもいるのではないでしょうか。

まさに、子犬の頃は可愛いから飼ってみたけど、成犬になった犬はそれほど愛くるしくもないし、老犬まで世話をするのも大変だから捨ててしまうのに似ています。

このように、「みんな望まれて生まれてきたんやでえ」と殊更なポジティブなトーンで言われることに対する反発心は、このフレーズに含まれるうそ臭さに由縁すると思います。

なにより、明石屋さんまさんがプロデュースだからか、関西弁にしてオブラートに包んで受け入れやすそうにしていること自体がさらに、イラっとさせる要因だと思います。

標準語で「みんな望まれて生まれてきたんですよ」と言われるとすると、説教臭くて到底受け入れられないところを、関西弁にしてほっこりさせてみました、という感じがなおさら鼻につくのです。

ではどうすればよかったのでしょうか。

僕は「自分の意志で生まれてきた人は一人もいない」ということを言えばよかったのだと思います。

関西弁にするとしたら「自分から生まれてきたかった人はいないんやでえ」でしょうか。

まず、「自分の意志で生まれてきた人は一人もいない」というのは、これは紛れもない事実です。

自分から、よし生まれようと決意して、この世に誕生した人は誰一人としていません。誰もが、両親による生殖行為の結果として(少数の生殖医療も含み)、意志とは関係なくこの世に誕生したのです。

この点は誰も反論のしようがありません。事実です。

例えば、インスタグラムにリア充な日常を投稿し続ける自信満々そうに見えるインフルエンサーも、新宿中央公園ダンボールで寝泊りしているホームレスも、「自分の意志で生まれてきたわけではない」事は確実にどちらにとっても事実です。

容姿端麗で、恵まれた家庭環境の下にうまれてインフルエンサーになったのは、物心ついた後は自分の意志が働いたでしょうが、生まれ自体は他人(両親)任せの決断で、本人は何もかかわっていないのです。

また、ホームレスの男性も、なぜ新宿中央公園にたどり着いたかについては本人の意思に拠る面もそれなりにあったかもしれませんが(これも、本人に責のない障害の一部とは思いますが、その話はまた)、生まれは他人任せで、本人の意思や責任とは何の関係もない点は、インフルエンサーとなんら変わりありません。

誰もがみな、自分の意志で生まれてきたわけではない中、また自分で選べなかった生まれた条件を抱えながら一生懸命生き、あるものは途中で息絶え、残されたものは生きながらえていること、これこそが、もっと認識されて、互いに讃えて然るべきことではないでしょうか。

「自分の意志で生まれてきた人は一人もいない」というと、一見なにかネガティブな感じもするかもしれません。

でも、「自分の意志で生まれてきた人は一人もいない」というメッセージには、そんな中で「誰もが、一生懸命生きているんやでえ」というメッセージが続きます。

こうすれば、批判されることなく、頑張っていこうや!というポジティブなメッセージをマーケットに送れたんじゃないかなと思います。

映画見てないから知らんけど。

子育てとは祈ること

子育てをしたことがないので、子育て中の方を尊敬します。

夫婦であれ、またさらに、シングルファーザーやシングルマザーであればなおさら、傍から見ていると、子育てって本当に大変そうに見えます。

子育てをしたことがないので、想像だけですが、子育ての中で僕にとって一番大変そうだなと思うのは、乳児期の夜鳴きです。

2時間おきに泣かれて、そのたびに授乳しないといけない、などと聞くと、睡眠時間が重要な自分にとって、子育てはムリだなと思っています。

もちろん、僕が授乳できるわけではないですが、夜中に赤ちゃんが泣き出して、女性の配偶者が眠い体に鞭打って対応しようとすれば、同じ家の中にいる僕も物音で起きてしまうでしょう。

また、女性のほうだけにそんな負担を負わせている申し訳なさから、僕自体も再び眠りにつくことが難しくなることもあります。

次に大変そうなのは、やはり、ある程度の年齢まで(最低でも10年?でしょうか)毎日食事を与えることです。

この大変さは、食事を作るために、食材を購入するための原資を稼ぐこと(=勤労)から始まり、それ以上に、毎日少なくとも2食は栄養バランスを考えつつ、なんらかの食事をつくり与える、その手間と時間です。

特に幼児期であれば、食事を与えるか与えないかは生死に直結しそうなので、人の生殺与奪を握っているに等しいです。

実際に、ネグレクトなどで食事を与えないで亡くなった子供のニュースを聞くと、それだけでも責任の重大さを感じます。

ちなみに、僕の同僚で、一人目の娘さんが3歳くらいになったパパが、「とりあえずそんなに簡単に子供は死なないことがわかった」と言って、2人目の妊娠・出産の決断に踏み切ったことを話してくれ、とても印象的でした。

このコメントには、そういう感慨になるのか!?とも一瞬思いましたが、乳児期に毎日食事を与えて、適切なケアをして、死なないようにするというのは相当なプレッシャーがあるんだろうな、と妙に納得したのを覚えています。

ところで、最近、子育てで大変なことは、食事を与えること、お金をかけること、また、愛情をかけることとも少し違うんじゃなかろうか、と気づくことがありました。

それは、食事の準備をしていたときです。

食事を準備するために、野菜を切って、煮たり、炒めたり、焼いたりする時間は、なんとなく幸せだけど、でも、基本的は孤独で単調な作業で、また段取りや調理方法が頭の中にあるつもりでも、実は意識では誰か人のことを考えていることに気づいたのです。

その考えている誰かは、これから一緒に食べる誰かであったり、一緒に食べたかった誰かであったり、もしくは、自分が幼いころに食事を作ってくれた思い出の中の誰かであったりするわけです。

そしてそこからなんとなく感じたのは、子育てとは、こんな風に誰かを思うことを何年も続けることではなかろうかということでした。

もちろんその誰かは、子育てをしている子供のことで、どこか別にいる誰かではないのですが、常に子供のことを思いながら、なんとなく孤独で単調で辛い作業を毎日毎日、何年にもかけて継続するものです。

そしてそれは祈ることに近いもの、もしかしたら祈りそのものの行為ではないのだろうかと思うのです。

逆に言えば祈りがあるからこそ、そのような単調で孤独な作業にも耐えられるのではないかと。

人間の子供が成人するまでには、約20年と言う年月を要します。

妊娠期間を含めると、この期間はもっと長くなります。

子育ては、子供が約20年後の成人を迎えるまで、長期にわたり世話することにコミットしないといけないプロジェクトです。

さらに、そのプロジェクトは成功するかどうかなど誰にもわかりません。20年の期間終了を迎えるまでに、残念ながら強制終了を迎えるプロジェクトもあります。

また、20年後にどのようになったら成功といえるのか基準も良くわかりません。

もちろん、人の価値観なんてそれぞれ、自分で成功したと納得できればそれでよいのです。

そうなると、今この目の前にいる泣き止まない子供に授乳しても泣き止まない時、または、せっかく用意した食事なのに不味いといわれた反抗期の子供に言われたとき、食事の準備から皿洗いなどの片付けなどの、単調で孤独な作業はどうしたら報われたといえるのでしょうか。

そんな言うことも聞かない、お礼も言わない相手に対する作業であれば、投げ出したくなったりしないのでしょうか。

それを投げ出さずに続けられるのは、祈りに近い思いがあるからでしょう。

おそらく、食事の準備や皿洗いをしているあなたが思っているのは、目の前にいる泣き止まない子供や、反対に、おいしかったと笑ってご馳走様を言う子供というよりは、5年後、10年後、15年後に成人する子供の姿ではないかと思います。

また、妊娠期間もなおさらそうでしょう。10ヵ月後に生まれてくる子供の顔姿もわからないけど、さらには、無事に生まれてくるかもわからないけど、妊娠という辛くて不便な生活に耐えられるのは、元気な赤ちゃんが生まれるようにとの祈りがあるからでしょう。

そして産まれてからは、5年、10年、15年どころか20年の長きにわたり、食事を準備し、食べた後の皿を荒い、汚れた体操着を洗い、部屋を掃除をするなどの単調な作業を続けられる裏には、子供が成長して成人し、その後の長い人生を自ら力強く生きていけるようにという強い祈りがあるからだと思います。

 

 

男性が得か女性が得か。男性が優秀か女性が優秀か。高度知識社会の男女の姿。

男性が得か、女性が得か。

男性が優秀か、女性が優秀か。

 

という男女比較論。

 

まずどちらが得かは、時代によって変わります。

そして、男性受難の時代を迎えているというのが僕の結論です。

 

歴史を遡ってみていきましょう。

 

狩猟採集や農耕時代、さらには産業革命以前の人力主体の製造が主とされていた時代には、一般的には体力・体格が優れている男性の方が、稼ぐ機会もあり、得であったと思います。

 

狩りに行って獲物を仕留めて、持ち帰った男性は、自分への分け前を少し多めに取っておくことなどは容易だったでしょう。

 

そして、女性は基本的には、男性が狩りからなどの生産作業から帰ってくるのを待つしか方法がなく、成果品を恵んでもらう存在だったといえます。

 

つまり、男性の体力・体格がその優位性の源泉だったのです。

 

また、生産面だけでく、軍事や防衛などの分野でも男性は有意です。

国を守るための軍事ではもちろんのこと、そのような大げさな仕事だけでなく、有史以前から村の防衛、つまり、共同体を他の共同体からの襲撃などから守るという防衛業務でも、体力や体格を有する男性が重宝され、活躍をしたことは想像に難くありません。

そうすると、もちろん大変な仕事ではあったとは思いますが、活躍する場があり、ひいては、それに見合う対価が用意されていたことを考えると、単純な家内作業にしか従事できなかった女性に比べれば、何かと男性の方が”トク”であったと考えます。

 

ところが、この男性の体力・体格をもとにした優位性(得であること)は、産業革命を境にして低減し始めます。

 

基本的に人力が全ての動力源であった生産現場に、蒸気機関という圧倒的な動力源が導入されると、女性に比べて優位であったとしても、男性の体力・体格などひとたまりもありません。

 

純化していえば、蒸気機関の作動開始スイッチを押して、始動させるだけの仕事であれば、男性であろうが女性であろうが関係ありません。

 

ここに、男性優位の時代の終わりが始まったと思います。

 

ただし、一足飛びに女性優位の時代が始まったわけではもちろんありません。何よりも文化的には男性の方がスゴイというような考え方が人々の間から払しょくされるには年月がかかります。

 

また生産現場においても、蒸気機関が導入されたとはいえ、その蒸気機関を建設・維持管理するには、まだまだ男性の体力・体格に依存することも多かったでしょう。

また、そのような蒸気機関を導入した生産現場の所有権は男性が引き続き握り、何かと男性優位な場面は残りました。

 

しかし、蒸気機関のみならず、様々な生産革命をへて、男性の体力・体格の優位性は、ゆっくりとながらも着実に奪われていきます。

 

これはどういうことかというと、男性の優位性である体力や体格はテクノロジーによって代替可能であったということです。

 

力が強くなくても、体格が大きくなくても、生産が可能になっていったということです。

そして、現代の通信革命という生産革命も踏まえると、男女における体力・体格の差というのは、生産面においてはほとんど影響がないくらい小さくなりました。

それでは体力・体格以外はどうでしょうか?

むしろ、学力の面では、都立高校入試における「男女の合格最低点に差が生まれ、女子のほうが高くなる傾向がある」などという最近のニュースを見ると、女性の方が優秀なのでは、という推論が生まれます。

そうすると、今後の知識社会では、これまでの男性優位が逆転し、知能の高い女性の方が優位になる可能性が高く、私たちはいまその歴史的転換点に差し掛かっているのかもしれません。

 

つまり、優秀かという議論においても、知識社会という女性の方が優秀と結論付けられる時代に突入しようとしているのだと思います。

次に男女のどちらが得かという議論です。

まず知能面で女性が優秀だからといって、知識社会では必ず得とも限らない制約条件はあります。

まず、女性の場合はなんといっても美醜について判断される存在であることがあげられるでしょう。

見た目が美しいかそうでないか、で、得に結びつく機会・社会制度は依然として強固に社会に存在しています。

TV等のCMに登場する女性モデル、ミスコン、さらにはメークをしないとけいないような社会的圧力などは、男性である僕から見ても、(もちろんそれらのメリットに便乗していることを隠すつもりは全くない中でも)男性に比べて、大変だなと思います。

というか、女性全体を十把一絡げに論じることはできず、女性の中でも得している個体とそうでない個体の個体差があまりにも大きい、という状況でしょうか。

 

もうひとつ、こちらは女性全体として得ではないこと制約条件として、女性は出産をする性と”決められていること”だと思います。

ここでは、出産を否定しているわけではもちろん全くなく、出産にとられる時間の機会的損失を指しています。

出産はそれを希望する女性にとっては素晴らしい経験でしょうし、また、男女双方の人類の存続にとって大きい貢献ですが、問題はそのメリットを享受する個体と、負担を負う個体=妊婦個人に大きなズレがあることです。

出産に費やされる時間を、もっと楽しいことやキャリアに割きたいと願う女性がいても、それは現状無理です。他の女性や、言わんをや男性が肩代わりすらしてあげられません。

妊娠・出産・授乳には女性個人がある程度時間を割くことが否応なく求められます。

 

さて、それでは、女性よりも男性の方が優秀だけど、得ではないという時代が続くのでしょうか。

 

僕は、男性にも、上で述べた女性の美醜や出産という不利面に匹敵する、不利な要素があると思います。

 

まず、男性は犯罪に関与する割合が圧倒的に高いです。

 

犯罪白書によると令和元年に検挙された刑法犯19万人の内訳は8割が男性、2割が女性と、圧倒的な男性多数となっています。

 

この男性がより犯罪に加担する理由は、生物学的、社会学的に様々な理由が考えられますが、ひとつは、男性のテストステロン過剰が「けんかっぱやく」なっていることがいわれます。

つまり、男性も自分の努力や自制心だけではどうにもできない運命を内に秘めているのです。

これは男性が持って生まれた不利な気質といえます。

また、テストステロンは性衝動にも関係あります。

男性の方が乱交的であり、性欲に支配されがちな傾向は、女性同性愛者が、女性を性的対象とするのに、ほとんど乱交的にならないことからも、性的指向にかかわらず男性性がもってうまれた宿命であることがわかります。

女性が性欲を自制して学ぶあいだに、男性が自慰で時間を浪費する、なんてことも頻繁に起こっていると思います。

さらには、自閉症ソーシャルスキルの欠如と反復的な行動を特徴とする発達障害で、全人口の1%以上がなるものの、長年、男児の方が診断される確率が高いとして知られています。

対人コミュニケーションを苦手とする自閉症的傾向が男性の方に多い、つまり、女性の方が総じてコミュニケーション能力が高いということは、今後の知識社会において、女性が優位になるという大きな示唆を与えます。

 

このように、男性も女性もそれぞれに制約を抱えている中で、やはり時代は、少しずつ女性優位に変化していくものと思います。

 

ただし、美醜の問題や、自閉的傾向を有するかどうかなどは、男性や女性のそれぞれのカテゴリーの中でも個体差が大きい問題です。

 

このため、ぶっちゃけてしまえば、美しく産まれ、コミュニケーション能力がばっちりな女性が知識社会では有利になり活躍しつつ、出産・育児の決断には悩み、一方で、無駄な体力・体格を有しつつ、コミュニケーション能力のない男性が、行き場のない喧嘩魂と性欲を持て余すのが、高度知識社会の男女のデフォルメされた姿であり、それは僕たちが現代社会ですでに目撃しているものかもしれません。

学校では教えてくれない大事な知識

学校では教えてくれないけれど、生きていくうえで大事な知識として、よく知られているのは、お金・投資とセックスがあります。

このうちお金・投資の方は、最近は投資教育も始まっているので、少しずつ学校教育という公の場で身に着けることができるようになっています。

一方、セックスについては、性教育を学校で教えている、との指摘があると思いますが、学校で教えてくれる性教育は、基本的には「男女がどのように子供を作るか」という妊娠至上主義の知識です。

このため、避妊方法も、基本的には「いかにして望まない妊娠を避けるか」という観点からの知識であり、それは「いかに望ましい妊娠を実現するか」という妊娠至上主義の裏返しな知識なだけな気がします。

いずれにしても、妊娠を中心とした性教育では、セックスに至るプロセスやテクニック、楽しみ方みたいな知識は当然教えてくれません。

このため、人はどのようなものに欲情するのか(LGBTのようなジェンダー性志向を含む)から始まり、セックスをエンジョイするためや、自分や相手により良い快感をもたらすことための知識・テクニックは、誰もが実地で切り開いて獲得していくしかありません。

妊娠から離れて性行為を楽しむのはほぼ人間だけらしいので、セックスをしなくても良い選択肢をとるためにも、誰もが知っておくべき重要な知識だと思うのですが、今は口コミやエロサイトなどの怪しい情報源から得ないといけないわけです。

さて、それ以外に学校では教えてくれない大事な知識があります。

それは、「夢がかなわなかった時にどうするか」という処世の知識だと思います。

学校は基本的には「夢は何か」、「将来何になりたいのか」というように、未来について前向きに考えることが求められ、また、それに向けて努力することを求められる場所です。

もちろん、前向きに努力することは素晴らしいことですし、それを否定するものではありません。

でも例えば、司法試験に受かるという夢を掲げて、良い高校、良い大学、良い法科大学院に進んで勉強するという努力をする人に、何度も司法試験に不合格になった場合の対処の知識が授けられる機会はいつでしょうか。

「何回司法試験に不合格になったらあきらめるべきか」、もしくは年齢的に「何歳までに司法試験に見切りをつけるべきか」などの知識は、法科大学への進路相談で予め教えてくれたりするのでしょうか。

基本的には、高校も大学もそして法科大学院も、司法試験に合格するために努力すべき知識を教えてくれる場所・過程であり、夢を否定するような知識は極力避ける傾向があります。

このため、どこかの時点で司法試験から見切りをつけるときに、人は、知識もない中、自分で判断して踏み出さないといけません。

司法試験であればまだましかもしれません。

見切りをつけないといけない人は、少数派であるからです。

でも例えばこれが、幼いころから友達と遊ぶ時間を犠牲にしてレッスンに通うバレリーナ希望の小学生や、プロ野球選手を目指して特待生で野球留学をしている中学生などであればどうでしょうか。

このような分野は、夢がかなう人よりもかなわない人の方が圧倒的に多いのに、バレリーナになれなかった時、プロ野球選手になれなかった時、何の知識もなく、その後の人生の軌道修正をしないといけないのです。

もしかしたら夢をかなえるための知識より、夢をあきらめて再び歩き出すのに必要な知識こそ、多くの人にとってはより意義があり、重要なのではないでしょうか。

さて、今は誰もが語り部になる時代です。

 

saishot.hatenadiary.com

 

夢がかなわなかった人、夢を追いかける知識は豊富に身に着けたけど、人生の軌道修正の知識はほとんどない中、修正せざるを得なかった人などの発信が多くなれば、「学校では教えてくれない」これらの大事な知識を身に着ける機会になるかもしれません。

 

口はマルチタレント-食べることと話すことの両立が難しい

食べることも話すことも口を使うわけですが、両立って難しくないですか?

 

食べることは、摂取行為です。食べ物や飲み物を飲み込まないといけません。

反対に話すことは、排泄とまでは言いませんが、音声を体の中から外に出す行為。

 

このように食べることと話すことは全く反対の機能ですね。

この反対の機能を同時並行に行わないといけないのが、”他人との楽しい飲食”なんです。

 

さらに、食べることは、物をかむという咀嚼行為もしないといけません。

口が忙しいったらありゃしません。

 

体の器官の中で口ほど異なる機能(=食べることと話すこと)を担わされている器官はないのではないかと思うほどです。

 

人間以外の動物を見ればわかるように、口は基本的には摂取器官でしょう。

それなのになぜか、人間になると、口は話すというコミュニケーションの機能も担わされるようになったんですね。

 

”他人との楽しい飲食”は、この2つの機能を器用に使いこなすことが求められる場面です。

 

会食ではまず、相手の人に失礼にならないように、話を聞いて応答し、また自分からも話しもしないといけません。

そして、その間に食事も摂取しないといけない。

それも、相手の食べるスピードにあわせて(食事がサーブされるタイミングが混乱しないように)。

 

これって、同時並行に何かを行うことが苦手な高機能自閉症”グレーゾーン”の自分にとって、大変で苦痛でもあったりします。

 

僕は食べるなら食べることに、話すなら話すことに集中したいです。

 

食べるんであれば、食べているものをよく噛んで味わい、会話(自分が話すことも聞くことも)に気を散らされることなく、味わい尽くしたい。

 

会話をするのであれば、話すことや聞くことに意識を注ぎ、目の前のおいしそうな食べ物に集中力を削がれずに、コミュニケーションに集中したい。

 

だいたい会話をしながら食べた物って、どんなに高くてうまいものでも100%味わえていなくてもったいないです。

 

美味しいものを口に入れて噛んでいる間にも、集中力は相手が話していることや、次に自分が何を応答しようかということに行っており、本当に味わうことに振り分けられる集中力は100%ではないです。

 

仕事で会食をする場面ではそれなりに高価で普段食べられないような美味い食事が出ます。

 

それなのに、会食こそ集中力は相手(接待相手)とのコミュニケーションに優先されてもっていかれるわけで、料理自体がどうだったか、とか、そもそも何を食べたのかなどの記憶がほとんどありません。

 

普段食べれないような良いものを食べているのに、会食の最中に美味しそうなものに遭遇したとしても、それを言い出せません。

 

例えば、「ちょっとこのお肉美味しいので、僕は咀嚼に2分かけたいです。ついては、会話をストップさせてください!」なんて言えないわけです。

 

だから、基本的に僕は上手いものほど一人で時間をかけてゆっくり味わいたいです。

 

「食事は黙ってもくもくと」というと、頑固おやじのパワハラに支配された家庭や、集団教育の行き過ぎた学校のような光景のような気もしますが、僕はその方が好きです。

 

話すことと両立しながら食べるなんてもったいないし、無理です。

 

食べることは食べることで、話すことは話すことで、場面を切り分けで考えたいタイプです。

 

追記です。

一人二役な器官といえば、排泄と射精を行う男性の陰茎があります。ただし、当然排尿と射精は同時には行えないわけで、やっぱり食べることと話すことを同時に行わないといけない口ってすごい!

 

ちなみに口は、エッチの際には舌で舐めるとかも大活躍しますよね。1人三役ですね。