税所(さいしょ)の日記

IQ122(全検査数値)の高機能自閉症”グレーゾーン”の頭の中身。

自分の意志で生まれてきた人は一人もいないという事実

「みんな望まれて生まれてきたんやでえ」という、とある映画のキャッチコピーが物議をかもしているようですね。

 

Twitterハッシュタグでは、このキャッチコピーに対して「親にお前なんて生まなきゃ良かったといわれて育った」、「児童養護施設に行って、児童の前でそのセリフいえるか」、など、散々に批判されています。

 

僕もこのキャッチコピーは有り得ないなと思います。

 

まず、単純に事実として証明できないですね、本当にみんな望まれ生まれてきたのかどうかを。

 

できちゃった婚」などという言葉があり、望まなかった妊娠・出産が存在する事は明らかです。

 

もちろん、「できちゃった婚」で、妊娠を認識した後に「望む」出産に変化することは十分にあると思います。なにしろ、妊娠を契機に結婚を決意するに至ったわけですから、子供は望まれで生まれてきたことになります。

 

でもその場合でも、必ず100%望まれた形になるとも限りません。不本意さが残る出産はまだあると思います。

 

また、望まない性行為で強制的に妊娠というのもあります。いわゆる強制された性行為の結果ですが、その場合でも何らかの理由で堕胎という選択肢が選べなかったものもあると思います。

そして、更なる問題は、「望まれて生まれてきた」から何?というのがあります。

「みんな望まれて生まれてきたんやでえ」と言い切られてしまうと、まるで、だからお前「幸せなはずや」とか「頑張れるはずや」と、有無をいわさず背中を押されている感がするところが問題なんだと思います。

なぜなら、「望まれて生まれてきたこと」は出産時点での結果論であり、その後の人生に100%連関するものではありません。

もちろん、「望まれて生まれてきたこと」は、父母が知力・財力もそれなりしっかりしていて、恵まれた環境で子育て期間を過ごせることを意味するかもしれません。そうであれば子供時代に手厚いサポートを受けられ、幸せな子供時代をすごす事もできそうです。

しかしながら、成人してからも、「望まれて生まれてきたこと」が、必ずしも幸せを意味するわけではないことは明らかです。

また、面倒くさいのは、「望まれて生まれてきたこと」の望まれたのは妊娠、乳児期の自分だっただけかもしれない可能性もあるということです。

「赤ちゃんが欲しかった」、「子供を産むというステータスが欲しかった」と考えていたけど、産んで子供が大きくなったら、内心、子供なんで産まなきゃ良かったと思っているオトナもいるのではないでしょうか。

まさに、子犬の頃は可愛いから飼ってみたけど、成犬になった犬はそれほど愛くるしくもないし、老犬まで世話をするのも大変だから捨ててしまうのに似ています。

このように、「みんな望まれて生まれてきたんやでえ」と殊更なポジティブなトーンで言われることに対する反発心は、このフレーズに含まれるうそ臭さに由縁すると思います。

なにより、明石屋さんまさんがプロデュースだからか、関西弁にしてオブラートに包んで受け入れやすそうにしていること自体がさらに、イラっとさせる要因だと思います。

標準語で「みんな望まれて生まれてきたんですよ」と言われるとすると、説教臭くて到底受け入れられないところを、関西弁にしてほっこりさせてみました、という感じがなおさら鼻につくのです。

ではどうすればよかったのでしょうか。

僕は「自分の意志で生まれてきた人は一人もいない」ということを言えばよかったのだと思います。

関西弁にするとしたら「自分から生まれてきたかった人はいないんやでえ」でしょうか。

まず、「自分の意志で生まれてきた人は一人もいない」というのは、これは紛れもない事実です。

自分から、よし生まれようと決意して、この世に誕生した人は誰一人としていません。誰もが、両親による生殖行為の結果として(少数の生殖医療も含み)、意志とは関係なくこの世に誕生したのです。

この点は誰も反論のしようがありません。事実です。

例えば、インスタグラムにリア充な日常を投稿し続ける自信満々そうに見えるインフルエンサーも、新宿中央公園ダンボールで寝泊りしているホームレスも、「自分の意志で生まれてきたわけではない」事は確実にどちらにとっても事実です。

容姿端麗で、恵まれた家庭環境の下にうまれてインフルエンサーになったのは、物心ついた後は自分の意志が働いたでしょうが、生まれ自体は他人(両親)任せの決断で、本人は何もかかわっていないのです。

また、ホームレスの男性も、なぜ新宿中央公園にたどり着いたかについては本人の意思に拠る面もそれなりにあったかもしれませんが(これも、本人に責のない障害の一部とは思いますが、その話はまた)、生まれは他人任せで、本人の意思や責任とは何の関係もない点は、インフルエンサーとなんら変わりありません。

誰もがみな、自分の意志で生まれてきたわけではない中、また自分で選べなかった生まれた条件を抱えながら一生懸命生き、あるものは途中で息絶え、残されたものは生きながらえていること、これこそが、もっと認識されて、互いに讃えて然るべきことではないでしょうか。

「自分の意志で生まれてきた人は一人もいない」というと、一見なにかネガティブな感じもするかもしれません。

でも、「自分の意志で生まれてきた人は一人もいない」というメッセージには、そんな中で「誰もが、一生懸命生きているんやでえ」というメッセージが続きます。

こうすれば、批判されることなく、頑張っていこうや!というポジティブなメッセージをマーケットに送れたんじゃないかなと思います。

映画見てないから知らんけど。

子育てとは祈ること

子育てをしたことがないので、子育て中の方を尊敬します。

夫婦であれ、またさらに、シングルファーザーやシングルマザーであればなおさら、傍から見ていると、子育てって本当に大変そうに見えます。

子育てをしたことがないので、想像だけですが、子育ての中で僕にとって一番大変そうだなと思うのは、乳児期の夜鳴きです。

2時間おきに泣かれて、そのたびに授乳しないといけない、などと聞くと、睡眠時間が重要な自分にとって、子育てはムリだなと思っています。

もちろん、僕が授乳できるわけではないですが、夜中に赤ちゃんが泣き出して、女性の配偶者が眠い体に鞭打って対応しようとすれば、同じ家の中にいる僕も物音で起きてしまうでしょう。

また、女性のほうだけにそんな負担を負わせている申し訳なさから、僕自体も再び眠りにつくことが難しくなることもあります。

次に大変そうなのは、やはり、ある程度の年齢まで(最低でも10年?でしょうか)毎日食事を与えることです。

この大変さは、食事を作るために、食材を購入するための原資を稼ぐこと(=勤労)から始まり、それ以上に、毎日少なくとも2食は栄養バランスを考えつつ、なんらかの食事をつくり与える、その手間と時間です。

特に幼児期であれば、食事を与えるか与えないかは生死に直結しそうなので、人の生殺与奪を握っているに等しいです。

実際に、ネグレクトなどで食事を与えないで亡くなった子供のニュースを聞くと、それだけでも責任の重大さを感じます。

ちなみに、僕の同僚で、一人目の娘さんが3歳くらいになったパパが、「とりあえずそんなに簡単に子供は死なないことがわかった」と言って、2人目の妊娠・出産の決断に踏み切ったことを話してくれ、とても印象的でした。

このコメントには、そういう感慨になるのか!?とも一瞬思いましたが、乳児期に毎日食事を与えて、適切なケアをして、死なないようにするというのは相当なプレッシャーがあるんだろうな、と妙に納得したのを覚えています。

ところで、最近、子育てで大変なことは、食事を与えること、お金をかけること、また、愛情をかけることとも少し違うんじゃなかろうか、と気づくことがありました。

それは、食事の準備をしていたときです。

食事を準備するために、野菜を切って、煮たり、炒めたり、焼いたりする時間は、なんとなく幸せだけど、でも、基本的は孤独で単調な作業で、また段取りや調理方法が頭の中にあるつもりでも、実は意識では誰か人のことを考えていることに気づいたのです。

その考えている誰かは、これから一緒に食べる誰かであったり、一緒に食べたかった誰かであったり、もしくは、自分が幼いころに食事を作ってくれた思い出の中の誰かであったりするわけです。

そしてそこからなんとなく感じたのは、子育てとは、こんな風に誰かを思うことを何年も続けることではなかろうかということでした。

もちろんその誰かは、子育てをしている子供のことで、どこか別にいる誰かではないのですが、常に子供のことを思いながら、なんとなく孤独で単調で辛い作業を毎日毎日、何年にもかけて継続するものです。

そしてそれは祈ることに近いもの、もしかしたら祈りそのものの行為ではないのだろうかと思うのです。

逆に言えば祈りがあるからこそ、そのような単調で孤独な作業にも耐えられるのではないかと。

人間の子供が成人するまでには、約20年と言う年月を要します。

妊娠期間を含めると、この期間はもっと長くなります。

子育ては、子供が約20年後の成人を迎えるまで、長期にわたり世話することにコミットしないといけないプロジェクトです。

さらに、そのプロジェクトは成功するかどうかなど誰にもわかりません。20年の期間終了を迎えるまでに、残念ながら強制終了を迎えるプロジェクトもあります。

また、20年後にどのようになったら成功といえるのか基準も良くわかりません。

もちろん、人の価値観なんてそれぞれ、自分で成功したと納得できればそれでよいのです。

そうなると、今この目の前にいる泣き止まない子供に授乳しても泣き止まない時、または、せっかく用意した食事なのに不味いといわれた反抗期の子供に言われたとき、食事の準備から皿洗いなどの片付けなどの、単調で孤独な作業はどうしたら報われたといえるのでしょうか。

そんな言うことも聞かない、お礼も言わない相手に対する作業であれば、投げ出したくなったりしないのでしょうか。

それを投げ出さずに続けられるのは、祈りに近い思いがあるからでしょう。

おそらく、食事の準備や皿洗いをしているあなたが思っているのは、目の前にいる泣き止まない子供や、反対に、おいしかったと笑ってご馳走様を言う子供というよりは、5年後、10年後、15年後に成人する子供の姿ではないかと思います。

また、妊娠期間もなおさらそうでしょう。10ヵ月後に生まれてくる子供の顔姿もわからないけど、さらには、無事に生まれてくるかもわからないけど、妊娠という辛くて不便な生活に耐えられるのは、元気な赤ちゃんが生まれるようにとの祈りがあるからでしょう。

そして産まれてからは、5年、10年、15年どころか20年の長きにわたり、食事を準備し、食べた後の皿を荒い、汚れた体操着を洗い、部屋を掃除をするなどの単調な作業を続けられる裏には、子供が成長して成人し、その後の長い人生を自ら力強く生きていけるようにという強い祈りがあるからだと思います。

 

 

男性が得か女性が得か。男性が優秀か女性が優秀か。高度知識社会の男女の姿。

男性が得か、女性が得か。

男性が優秀か、女性が優秀か。

 

という男女比較論。

 

まずどちらが得かは、時代によって変わります。

そして、男性受難の時代を迎えているというのが僕の結論です。

 

歴史を遡ってみていきましょう。

 

狩猟採集や農耕時代、さらには産業革命以前の人力主体の製造が主とされていた時代には、一般的には体力・体格が優れている男性の方が、稼ぐ機会もあり、得であったと思います。

 

狩りに行って獲物を仕留めて、持ち帰った男性は、自分への分け前を少し多めに取っておくことなどは容易だったでしょう。

 

そして、女性は基本的には、男性が狩りからなどの生産作業から帰ってくるのを待つしか方法がなく、成果品を恵んでもらう存在だったといえます。

 

つまり、男性の体力・体格がその優位性の源泉だったのです。

 

また、生産面だけでく、軍事や防衛などの分野でも男性は有意です。

国を守るための軍事ではもちろんのこと、そのような大げさな仕事だけでなく、有史以前から村の防衛、つまり、共同体を他の共同体からの襲撃などから守るという防衛業務でも、体力や体格を有する男性が重宝され、活躍をしたことは想像に難くありません。

そうすると、もちろん大変な仕事ではあったとは思いますが、活躍する場があり、ひいては、それに見合う対価が用意されていたことを考えると、単純な家内作業にしか従事できなかった女性に比べれば、何かと男性の方が”トク”であったと考えます。

 

ところが、この男性の体力・体格をもとにした優位性(得であること)は、産業革命を境にして低減し始めます。

 

基本的に人力が全ての動力源であった生産現場に、蒸気機関という圧倒的な動力源が導入されると、女性に比べて優位であったとしても、男性の体力・体格などひとたまりもありません。

 

純化していえば、蒸気機関の作動開始スイッチを押して、始動させるだけの仕事であれば、男性であろうが女性であろうが関係ありません。

 

ここに、男性優位の時代の終わりが始まったと思います。

 

ただし、一足飛びに女性優位の時代が始まったわけではもちろんありません。何よりも文化的には男性の方がスゴイというような考え方が人々の間から払しょくされるには年月がかかります。

 

また生産現場においても、蒸気機関が導入されたとはいえ、その蒸気機関を建設・維持管理するには、まだまだ男性の体力・体格に依存することも多かったでしょう。

また、そのような蒸気機関を導入した生産現場の所有権は男性が引き続き握り、何かと男性優位な場面は残りました。

 

しかし、蒸気機関のみならず、様々な生産革命をへて、男性の体力・体格の優位性は、ゆっくりとながらも着実に奪われていきます。

 

これはどういうことかというと、男性の優位性である体力や体格はテクノロジーによって代替可能であったということです。

 

力が強くなくても、体格が大きくなくても、生産が可能になっていったということです。

そして、現代の通信革命という生産革命も踏まえると、男女における体力・体格の差というのは、生産面においてはほとんど影響がないくらい小さくなりました。

それでは体力・体格以外はどうでしょうか?

むしろ、学力の面では、都立高校入試における「男女の合格最低点に差が生まれ、女子のほうが高くなる傾向がある」などという最近のニュースを見ると、女性の方が優秀なのでは、という推論が生まれます。

そうすると、今後の知識社会では、これまでの男性優位が逆転し、知能の高い女性の方が優位になる可能性が高く、私たちはいまその歴史的転換点に差し掛かっているのかもしれません。

 

つまり、優秀かという議論においても、知識社会という女性の方が優秀と結論付けられる時代に突入しようとしているのだと思います。

次に男女のどちらが得かという議論です。

まず知能面で女性が優秀だからといって、知識社会では必ず得とも限らない制約条件はあります。

まず、女性の場合はなんといっても美醜について判断される存在であることがあげられるでしょう。

見た目が美しいかそうでないか、で、得に結びつく機会・社会制度は依然として強固に社会に存在しています。

TV等のCMに登場する女性モデル、ミスコン、さらにはメークをしないとけいないような社会的圧力などは、男性である僕から見ても、(もちろんそれらのメリットに便乗していることを隠すつもりは全くない中でも)男性に比べて、大変だなと思います。

というか、女性全体を十把一絡げに論じることはできず、女性の中でも得している個体とそうでない個体の個体差があまりにも大きい、という状況でしょうか。

 

もうひとつ、こちらは女性全体として得ではないこと制約条件として、女性は出産をする性と”決められていること”だと思います。

ここでは、出産を否定しているわけではもちろん全くなく、出産にとられる時間の機会的損失を指しています。

出産はそれを希望する女性にとっては素晴らしい経験でしょうし、また、男女双方の人類の存続にとって大きい貢献ですが、問題はそのメリットを享受する個体と、負担を負う個体=妊婦個人に大きなズレがあることです。

出産に費やされる時間を、もっと楽しいことやキャリアに割きたいと願う女性がいても、それは現状無理です。他の女性や、言わんをや男性が肩代わりすらしてあげられません。

妊娠・出産・授乳には女性個人がある程度時間を割くことが否応なく求められます。

 

さて、それでは、女性よりも男性の方が優秀だけど、得ではないという時代が続くのでしょうか。

 

僕は、男性にも、上で述べた女性の美醜や出産という不利面に匹敵する、不利な要素があると思います。

 

まず、男性は犯罪に関与する割合が圧倒的に高いです。

 

犯罪白書によると令和元年に検挙された刑法犯19万人の内訳は8割が男性、2割が女性と、圧倒的な男性多数となっています。

 

この男性がより犯罪に加担する理由は、生物学的、社会学的に様々な理由が考えられますが、ひとつは、男性のテストステロン過剰が「けんかっぱやく」なっていることがいわれます。

つまり、男性も自分の努力や自制心だけではどうにもできない運命を内に秘めているのです。

これは男性が持って生まれた不利な気質といえます。

また、テストステロンは性衝動にも関係あります。

男性の方が乱交的であり、性欲に支配されがちな傾向は、女性同性愛者が、女性を性的対象とするのに、ほとんど乱交的にならないことからも、性的指向にかかわらず男性性がもってうまれた宿命であることがわかります。

女性が性欲を自制して学ぶあいだに、男性が自慰で時間を浪費する、なんてことも頻繁に起こっていると思います。

さらには、自閉症ソーシャルスキルの欠如と反復的な行動を特徴とする発達障害で、全人口の1%以上がなるものの、長年、男児の方が診断される確率が高いとして知られています。

対人コミュニケーションを苦手とする自閉症的傾向が男性の方に多い、つまり、女性の方が総じてコミュニケーション能力が高いということは、今後の知識社会において、女性が優位になるという大きな示唆を与えます。

 

このように、男性も女性もそれぞれに制約を抱えている中で、やはり時代は、少しずつ女性優位に変化していくものと思います。

 

ただし、美醜の問題や、自閉的傾向を有するかどうかなどは、男性や女性のそれぞれのカテゴリーの中でも個体差が大きい問題です。

 

このため、ぶっちゃけてしまえば、美しく産まれ、コミュニケーション能力がばっちりな女性が知識社会では有利になり活躍しつつ、出産・育児の決断には悩み、一方で、無駄な体力・体格を有しつつ、コミュニケーション能力のない男性が、行き場のない喧嘩魂と性欲を持て余すのが、高度知識社会の男女のデフォルメされた姿であり、それは僕たちが現代社会ですでに目撃しているものかもしれません。

学校では教えてくれない大事な知識

学校では教えてくれないけれど、生きていくうえで大事な知識として、よく知られているのは、お金・投資とセックスがあります。

このうちお金・投資の方は、最近は投資教育も始まっているので、少しずつ学校教育という公の場で身に着けることができるようになっています。

一方、セックスについては、性教育を学校で教えている、との指摘があると思いますが、学校で教えてくれる性教育は、基本的には「男女がどのように子供を作るか」という妊娠至上主義の知識です。

このため、避妊方法も、基本的には「いかにして望まない妊娠を避けるか」という観点からの知識であり、それは「いかに望ましい妊娠を実現するか」という妊娠至上主義の裏返しな知識なだけな気がします。

いずれにしても、妊娠を中心とした性教育では、セックスに至るプロセスやテクニック、楽しみ方みたいな知識は当然教えてくれません。

このため、人はどのようなものに欲情するのか(LGBTのようなジェンダー性志向を含む)から始まり、セックスをエンジョイするためや、自分や相手により良い快感をもたらすことための知識・テクニックは、誰もが実地で切り開いて獲得していくしかありません。

妊娠から離れて性行為を楽しむのはほぼ人間だけらしいので、セックスをしなくても良い選択肢をとるためにも、誰もが知っておくべき重要な知識だと思うのですが、今は口コミやエロサイトなどの怪しい情報源から得ないといけないわけです。

さて、それ以外に学校では教えてくれない大事な知識があります。

それは、「夢がかなわなかった時にどうするか」という処世の知識だと思います。

学校は基本的には「夢は何か」、「将来何になりたいのか」というように、未来について前向きに考えることが求められ、また、それに向けて努力することを求められる場所です。

もちろん、前向きに努力することは素晴らしいことですし、それを否定するものではありません。

でも例えば、司法試験に受かるという夢を掲げて、良い高校、良い大学、良い法科大学院に進んで勉強するという努力をする人に、何度も司法試験に不合格になった場合の対処の知識が授けられる機会はいつでしょうか。

「何回司法試験に不合格になったらあきらめるべきか」、もしくは年齢的に「何歳までに司法試験に見切りをつけるべきか」などの知識は、法科大学への進路相談で予め教えてくれたりするのでしょうか。

基本的には、高校も大学もそして法科大学院も、司法試験に合格するために努力すべき知識を教えてくれる場所・過程であり、夢を否定するような知識は極力避ける傾向があります。

このため、どこかの時点で司法試験から見切りをつけるときに、人は、知識もない中、自分で判断して踏み出さないといけません。

司法試験であればまだましかもしれません。

見切りをつけないといけない人は、少数派であるからです。

でも例えばこれが、幼いころから友達と遊ぶ時間を犠牲にしてレッスンに通うバレリーナ希望の小学生や、プロ野球選手を目指して特待生で野球留学をしている中学生などであればどうでしょうか。

このような分野は、夢がかなう人よりもかなわない人の方が圧倒的に多いのに、バレリーナになれなかった時、プロ野球選手になれなかった時、何の知識もなく、その後の人生の軌道修正をしないといけないのです。

もしかしたら夢をかなえるための知識より、夢をあきらめて再び歩き出すのに必要な知識こそ、多くの人にとってはより意義があり、重要なのではないでしょうか。

さて、今は誰もが語り部になる時代です。

 

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夢がかなわなかった人、夢を追いかける知識は豊富に身に着けたけど、人生の軌道修正の知識はほとんどない中、修正せざるを得なかった人などの発信が多くなれば、「学校では教えてくれない」これらの大事な知識を身に着ける機会になるかもしれません。

 

口はマルチタレント-食べることと話すことの両立が難しい

食べることも話すことも口を使うわけですが、両立って難しくないですか?

 

食べることは、摂取行為です。食べ物や飲み物を飲み込まないといけません。

反対に話すことは、排泄とまでは言いませんが、音声を体の中から外に出す行為。

 

このように食べることと話すことは全く反対の機能ですね。

この反対の機能を同時並行に行わないといけないのが、”他人との楽しい飲食”なんです。

 

さらに、食べることは、物をかむという咀嚼行為もしないといけません。

口が忙しいったらありゃしません。

 

体の器官の中で口ほど異なる機能(=食べることと話すこと)を担わされている器官はないのではないかと思うほどです。

 

人間以外の動物を見ればわかるように、口は基本的には摂取器官でしょう。

それなのになぜか、人間になると、口は話すというコミュニケーションの機能も担わされるようになったんですね。

 

”他人との楽しい飲食”は、この2つの機能を器用に使いこなすことが求められる場面です。

 

会食ではまず、相手の人に失礼にならないように、話を聞いて応答し、また自分からも話しもしないといけません。

そして、その間に食事も摂取しないといけない。

それも、相手の食べるスピードにあわせて(食事がサーブされるタイミングが混乱しないように)。

 

これって、同時並行に何かを行うことが苦手な高機能自閉症”グレーゾーン”の自分にとって、大変で苦痛でもあったりします。

 

僕は食べるなら食べることに、話すなら話すことに集中したいです。

 

食べるんであれば、食べているものをよく噛んで味わい、会話(自分が話すことも聞くことも)に気を散らされることなく、味わい尽くしたい。

 

会話をするのであれば、話すことや聞くことに意識を注ぎ、目の前のおいしそうな食べ物に集中力を削がれずに、コミュニケーションに集中したい。

 

だいたい会話をしながら食べた物って、どんなに高くてうまいものでも100%味わえていなくてもったいないです。

 

美味しいものを口に入れて噛んでいる間にも、集中力は相手が話していることや、次に自分が何を応答しようかということに行っており、本当に味わうことに振り分けられる集中力は100%ではないです。

 

仕事で会食をする場面ではそれなりに高価で普段食べられないような美味い食事が出ます。

 

それなのに、会食こそ集中力は相手(接待相手)とのコミュニケーションに優先されてもっていかれるわけで、料理自体がどうだったか、とか、そもそも何を食べたのかなどの記憶がほとんどありません。

 

普段食べれないような良いものを食べているのに、会食の最中に美味しそうなものに遭遇したとしても、それを言い出せません。

 

例えば、「ちょっとこのお肉美味しいので、僕は咀嚼に2分かけたいです。ついては、会話をストップさせてください!」なんて言えないわけです。

 

だから、基本的に僕は上手いものほど一人で時間をかけてゆっくり味わいたいです。

 

「食事は黙ってもくもくと」というと、頑固おやじのパワハラに支配された家庭や、集団教育の行き過ぎた学校のような光景のような気もしますが、僕はその方が好きです。

 

話すことと両立しながら食べるなんてもったいないし、無理です。

 

食べることは食べることで、話すことは話すことで、場面を切り分けで考えたいタイプです。

 

追記です。

一人二役な器官といえば、排泄と射精を行う男性の陰茎があります。ただし、当然排尿と射精は同時には行えないわけで、やっぱり食べることと話すことを同時に行わないといけない口ってすごい!

 

ちなみに口は、エッチの際には舌で舐めるとかも大活躍しますよね。1人三役ですね。

 

買い物は決断することが多すぎる

最近気づいたんですが、買い物って苦痛ですね。

というか買い物が大嫌いかもしれないないです。

 

買い物って、まず、何を買って良いのかわからないです。

例えば洋服の買い物であれば、シャツを買わないといけない、パンツを買わないといけない、というニーズがあり、もちろんそのことは認識はしています。

 

じゃあ、シャツを買いに行こう、となった時に選択肢が多すぎませんか?。

まず、シャツのブランドを何にするのか、そしてどこの店舗で買うのか、決断しないといけないことが多すぎます。

 

まあ、僕はブランドを買うことはないので、あまり悩まずにユニクロに行きます。

でもユニクロだって、どこの店舗に何曜日に行くか決めないといけません。

ちなみに何曜日というのは、ユニクロは、週替わりでセール品が決まっているので、自分が買ったシャツが、実は来週セールになることが分かった日には、目も当てられないくらいのフラストレーションが発生します。

 

無事にユニクロの店舗に到着しても、サイズを決めて、一応試着もしますが、これまたなんだかんだで面倒くさいです。

そして、晴れて購入決定!

でもレジで支払いをする段階になっても、いざ支払いをするとなると、本当にこの決断で良かったのかどうか、頭の中はまだまだ逡巡したりします。

 

会計が終わってエコバッグにいれたシャツを家に持って帰るときに、なんでこんなものを肩に下げて帰らないといけないんだろう、身軽に歩きたいと考えると憂鬱になったりします。

 

さらに、シャツを家に持って帰った後、クローゼットの中のどこにしまおうと考え出すと、古いシャツは断捨離したほうが良いのかどうか、また、「一つ買ったら一つ捨てる」というルールをそういえば決めたなあなんてこと思い出し、一体どの古いシャツを捨てるべきか、なんてことを考え始めたら、これまたストレスです。

 

それだけでなく、そもそも本当にこのシャツで良かったのか、ユニクロではなく、他のブランドもあたっていたら、もっと品質が良くて安い製品があったんではないか、そんなこともぐるぐると頭をよぎったりします。

 

そして、家に着いていざシャツの値札や包装を捨てる時に、「これを捨ててしまえば、泣いても笑ってももう返品はできないんだ」と自分に言い聞かすこともストレスです。

 

とにかく買い物って、このように決断すべきことが多すぎませんか?

発達障害グレーゾーンにとっては、決断することが自体がとてもストレス中、決断の場面が多い買い物は、とてもストレスになっているんだなと気づきました。

これでは、買い物は楽しい、モノにも思い出、どころではありません。

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これでも昔は、買い物は楽しいと思っていたこともありました。

でも、今から考えると楽しいと思いこんでいただけなのかも。買い物が終わった後はぐったりしていることが多かったです。

年を重ねるごとに、この傾向が強くなってきている気がします。

 

誰か、シャツを定期的に買ってきて、これを着ていればそれでオッケーと言ってほしい。

 

本当にそんな思いです。

 とにかく負担を減らすために、最近は「柄もの、文字の入ったものは買わない。白、黒、青色以外のモノは買わない」などのルールを少しずつ自分の中に打ち立て、これに従うことで決断の負担を軽減しています。

 

それでも、実際に買い物の事前にネットで調べたり、店舗に行くと、このルールの範疇から外れた、魅力的な商品を見かけたりします。

 

広告・マーケティングに踊らされているわけです。

でもそれは僕のニーズ、ウォンツではありません。

 

そして、広告・マーケティングに踊らされそうになっている自分を戒めることも、これまたフラストレーションのたまるプロセスであったりします。

 

服だけの話ではありません。

 

毎日の夕食の材料をスーパーで買う時も、作った方が良いのか、総菜で済ませるのかから始まり、食べたいもの、体に良いもの、値段が高いもの、特売のモノなど、購入を判断する要素は多数あり、考え出すと無限ループにはまります。

 

総菜コーナーと鮮魚コーナーを何往復もする自分がいます。

 

ちなみに、最近、勝間和代さんがVoicyで、「最近好きなものしか食べないようにしている」という話をしていましたが、共感しました。

体に良いから野菜も買わないと、とか、今日は玉ねぎが特売だから買っておかないと、などと考え出すとだんだん訳が分からなくなってきます。

 

好きなものを一品だけ買い、あとは、家にあるもので済ませるというのもアリだなと思います。ちなみに勝間さんによると好きなものしか食べないと、少量で済むので、ダイエットにも良いらしいです。

 

選択肢が多いことは良いことだと思っていました。でも最近選択肢が多いことは、決断の負担に疲れるなと思い始めました。誰かが着るべきシャツを決めてくれればそれを着るし、そのまま出された食事も食べるし、という感じです。

 

そういえばアップルの創業者のジョブスも、毎朝何を着るべきか決断する時間がもったいないから、クローゼットの端から順番に着ていけばよいようにTシャツを並べていたと聞いたことがあります。今の僕はめっちゃ共感します。

 

人間のDNAは選択肢が多い状況・環境に未だ慣れていないのかもしれません。

昔は、着るものがある、食べるものがあるだけで幸運で、選択肢などなく、ほとんどすべてが一択というような環境だったでしょう。

現代社会が豊かになって初めて、選ぶことができるほどいろいろな製品・サービスが溢れて、選択肢の中から選択することが可能になったわけです。

 

それともこれは僕が発達障害グレーゾーンだからであり、定型発達の皆さんはやっぱり「うほっ、買い物ちょー楽しい!いろいろ考えて選び抜こう!」という感じなのでしょうか。

 

誰もが語り部の時代に成立した低予算番組

現代社会は高度化・複雑化しています。

これに伴い、人々の関心や生き方はどんどん多様になります。

さらに、人間の寿命が長寿化することにより、関心×経験年数を掛け合わせた多様化の度合いは益々増大します。

そしてSNSの出現により、メディアに取り上げられなくても、個人が関心や生き方を発信することができるようになりました。

これが誰もが語り部となる時代ですね。

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昔は現代ほど長寿でもなく、また、生きる糧のために労働する度合いが大きかった時代です。

人々は毎日農作業に従事し、労働に追われていくうちに今よりも短い寿命を終えていく、という生き方が大半だったのではないかと思います。 

そうすると自分と他人の生き方にそれ程大きな違いはなく、他人のそれを知りたいというニーズも今ほどはなかったものと思います。

しかし今や一億総発信時代、気軽に自分の関心や生き方を発信できるし、また興味のある人の発信を検索して知ることができます。

 

さて、このような、個人の関心や生き方を伝えることは、テレビ・新聞などの既存のメディアも得意とするところでした。

堅いところでいえばドキュメンタリー番組として(例:プロジェクトXなどのいまだ生存している人も含めた偉人伝)、気軽なところでは報道番組における箸休め的コーナー(例:100歳でお元気なおばあちゃんが市長から表彰)での取り上げ方ですね。

ところが、最近のテレビ番組を見ていると、バラエティーとして、また、特段何か特別な業績や取組があるわけでもない素人の関心や生き方を取り上げる番組が増えていると思います。

特に、テレビ東京は他のキー局に比べて予算の制約があるからか、素人を題材にした低予算(?)の番組作りがうまいと思います。

僕が好きな番組は以下の通りです。

 

昼メシ旅

日本各地を芸能人もしくはディレクターが歩いて回り、街頭、畑、店舗等で出会った人に話しかけ、何をしているのか聞き、その上で昼ご飯を見せてほしいとお願いするだけの番組。了承されると、その個人の家まで上がり込み、食事の様子を撮影しつつ、いろいろと話しを聞き出す。

 

家ついていっていいですか

ディレクターが終電近い時間帯の駅や飲み屋周辺で、帰宅しそうな人に話しかけ、家ついて言って良いかお願いする。了承されると、タクシー代とコンビニでの買い物代を番組が負担して、家までついていき、話を聞き出す。 

 

Youは何しに日本へ

ディレクターが成田空港等の到着ロビーで外国人に話しかけ、何しに日本に来たのか聞き出し、面白そうであれば同行取材をお願いする。了承されると日本各地どこかで待ち合わせて取材。

 

昼飯、家、来日目的、きっかけは何でも良いのですが、とにかく外国人を含む素人に話しかけて、取材をさせてもらうという、どれもほとんど同じ手口で成り立っています。

素人相手のため、出演にギャラ(出演料)は必要なく(交通費程度)、コストをおさえつつ、題材は非常にバラエティに富んでいる(なぜなら、誰もが語り部となる時代であるから)という、非常に巧みな番組制作の戦略だなと思います。

また確かに見ていて面白いです。

特に従来のドキュメンタリーや報道との違いは、仕事や取り組んでいることを中心に取り上げるのではなく、その人の家までついていって、暮らしぶり、家族(の有無)などのプライベートな情報までが映像で明らかになるところでしょう。

どんな家に住んでいるのか、どんな配偶者がいるのか、またその配偶者とどういうコミュニケーションをとっているかなどの情報は、その人の生き様、関心、人格などについて多くの付随情報を与えてくれます。

芸能人の不倫や不祥事などのゴシップ情報は、いかに取材を極めても、家の中までや家族とのリアルのコミュニケーションを開示してくれるものではありません。

そういう意味では、他人の最もプライベートな領域まで入り込んでノンフィクションな情報を見られるものが、これらの素人を題材にした番組と言えます。

 

素人が生き様を見せるだけの番組が、俳優・芸人等の芸能人の演技(フィクション)やらプライベートの一部開示よりも、よほど面白いし、番組として成り立つ時代なのです。

また、素人の方もSNS発信の時代をむかえているからか、自らを開示することに躊躇しないようなってきているように見えます。

 

ただし、既存メディアは、個人のSNS発信などに比べれば圧倒的に予算力、企画力、広報力を有しており、個人の関心・生きざまという同じ素材を取り上げるにしても、その発信力、関心訴求力はけた違いです。

テレビ東京のこれらの番組は、既存メディアとSNSという新興メディアの移行期にうまくポジショニングされた企画だと思います(繰り返しますが、予算制約が一番の大きな理由かもしれませんが)。